圓應寺 住職法話
住職法話 第143回
緩和ケア医療に学ぶ生と死
【生と死の考察】151~156
「印象に残る檀家さんの死」
前回までのこの項では、友人と檀家さんの中で印象に残る方の死について5回に亘って考えました。今回は、その6回目です。
Ⅱ-151 印象に残る檀家さんの死 ⑥-ⅰ ~夫を見送り、妻のYさん自身も緩和ケア病棟に、そして…~
その年の二月、Yさんの夫が亡くなり、ご自身でお見送りをしたのですが、その時点でYさんは「膵臓ガン、余命三ヶ月」との診断を受けていました。それでも大変気丈に葬式などの大役を果たされ、「余命三ヶ月」の人とは思えないほどの立ち振る舞いでした。
しかし、夫の四十九日までの七日参りが続く中、次第に体力の衰えを見せるようになり、本堂への階段を上るのもつらそうな情況になってきました。そんな中、Yさんから「仏壇を世話して欲しい」との要請がありました。Yさん宅は以前から墓地を求め檀家になっていたのですが、これまで仏さんはなく、ご主人が初めての仏さんだったのです。直ぐ業者を紹介し、Yさんを含めたご家族に直接会って貰うことになりました。
Ⅱ-152 印象に残る檀家さんの死 ⑥-ⅱ ~夫を見送り、妻のYさん自身も緩和ケア病棟に、そして…~
Yさんの体力はその後も次第に衰え、ご主人が亡くなって約二ヶ月後、かつて私が勤務した山形県立中央病院の緩和ケア病棟に入院となりました。その数日後、ご家族から「仏壇が入ったので開眼のお参りをして欲しい」との連絡が入りました。予定日に自宅に伺うと家族・親戚の人たちの中にYさんもいたのです。「外出の許可を貰って来た、一緒にお参りしたいし実物の仏壇も見たいので」と。少し痩せたかなとは思いましたが、にこにこして対応し、「これで一安心。自分の魂もここに入ってお参りしてもらえる」と。Yさんは、自身の病状と余命期間の説明を既に受けているのですが、その表情と口調には暗さはなく、むしろ明るさを感じるのです。そして言葉にもあるように自信の「死」をキチンと意識しているのです。私は、これまで何回も触れてきましたように、緩和ケア病棟での仕事を通して多くの患者さんの「死期」に会ってきました。加えて約40年に及ぶ住職として多くの檀家さんを見送りました。しかしこのYさんのように、死後のお参りの象徴である新しい仏壇の開眼法要に際して、「実物の仏壇も見たい」「自分の魂もここに入ってお参りしてもらえる」というよな言葉と対応にこれまでお目にかかったことはありません。Yさんのこのような対応は、どこから来るのか分かりませんが、少なくともお迎えが来るまで自分がしなければならないことをしっかり成し遂げようとしていたのです。そうです、成し遂げることを通して、今日という一日一日を懸命に生きたのでした。
私は、僧侶の役割を通してYさんとの強い絆を感じることが出来たのでした。
Ⅱ-153 印象に残る檀家さんの死 ⑥-ⅲ ~夫を見送り、妻のYさん自身も緩和ケア病棟に、そして…~
それから約二週間後、家族を通して「位牌堂のお厨子を世話して欲しい」との要請がYさんからありました。早速業者から見積もりを貰い、家族を通してご本人に報告。「宜しくです」との返事を頂き、発注となりました。その後4~5日してお厨子の代金がYさんから住職に届いたのです。「死ぬ前にキチンとしておきたいから」というご本人の意向とのことでした。終活の最後の一手という感じでした。
数日後、業者から「完成まで3週間ほど」との連絡が入りました。私の仮領収証をYさんに渡しているものの、預かった経緯と完成時期を伝えに病棟のYさんに面会に行きました。代金を持参いただいた家族と一緒に緩和ケア病棟を訪ねたのでした。
Ⅱ-154 印象に残る檀家さんの死 ⑥-ⅳ ~夫を見送り、妻のYさん自身も緩和ケア病棟に、そして…~
病室に入るなり、私に気付いたYさんは、ビックリするような大きい声で「ウハァ~!オッさんだぁ~!(当地では住職・坊さんのことをこのように呼ぶ方も多いのです)嬉しいうれしい!」と言いながら私に両手を出し握手を求めてきました。そこまでの予想をしていなかった私は一瞬ためらってしまいましたが、私も両手を出して固い握手となったのです。しばらく握りあったままでしたが、Yさんの握る力が強いのと温ったかみのある感触は今でも強く印象に深く残っているほどなのです。「よく来てくれた、よく来てくれた」を連発してくれました。面会でこれだけの歓迎(?)を受けたのは初めてのことでした。
Ⅱ-155 印象に残る檀家さんの死 ⑥-ⅴ ~夫を見送り、妻のYさん自身も緩和ケア病棟に、そして…~
以下の内容は、かつて別の項で述べたものですが、再度述べることにします。
かつて私が病院の現職で、住職に成り立ての頃を思い起こします。今から40年ほど前の30歳代のことです。ご承知の通り私は住職の任の一方でこの山形県立中央病院に医療福祉相談員として勤務していました。頭は黒い髪を七三に分け、白衣を着ての勤務でした。時折、檀家の方が当院に入院されたことを人伝えに聞くと「勤務している病院に入ったのに挨拶しないわけにはいかない」との思いで病室を訪ねていたのです。その中で今でも忘れられない出来事がありました。当時の病室の大部分は6人部屋でした。「○○さん、こんにちは」と声をかけながら部屋に入ったその瞬間、○○さんはベットから飛び上がらんばかりに起きあがり「オッさんオレまだ逝かねから!」の大声を出したのです。その声に同室の5人も一斉に身を乗り出し私を見つめるのです。この空気と対応に挨拶もそこそこに私は退室したのでした。それからしばらくの間は、面会をためらうようになってしまいました。年も若く、住職としてもまだまだ未熟な私への対応は、ある意味当然だったのかも知れません。それなりの経験と檀家さんとの関係も出来、普通に面会できるようになるには10年以上の歳月が必要でした。
名古屋から先代住職の遷化により、山形の寺に帰ってきましたが、当初の住職と檀家さんの関係は浅く、表面的なものだったのです。ましてや互いの信頼関係にはまだまだの状態だったのでした。そこに法衣は着ていないものの、坊さんが現れたのですから「お迎えに来た」と映ってしまったのでした。住職ではあるものの、まだまだ青臭い頃の出来ごとでした。年を重ね、檀家さんと互いに気心が通うようになって自信を持って(?)面会に行くことが出来るようになり、Yさんへの面会もこのような流れの中で実現したのです。
Ⅱ-156 印象に残る檀家さんの死 ⑥-ⅵ ~夫を見送り、妻のYさん自身も緩和ケア病棟に、そして…~
このような経過の中でもYさんの歓迎(?)は異色のものだったのです。そのYさんは面会から一週間後、密厳浄土(極楽浄土)に旅立ったのでした。ご家族の話では、私の面会の翌日から意識が低下し、会話が出来た最後の日だったとのことでした。後日、緩和ケア病棟の主治医から「Yさん、住職に来てもらってすごく喜んでいた。有り難うございました」との連絡まで頂いたのでした。又、完成したお厨子が届いたのは葬儀が終わって暫くしてからのことでした。七日参りに併せ、ご家族と一緒に開眼のお参りをさせていただき、共にYさんの想いに浸ることが出来たのでした。