いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第88回

緩和ケア医療に学ぶ生と死
【生と死の考察】92~97

「身近な方々の死についてと人生の終わり方 友人Mさんの死」

 前回のこの項一昨年10月22日開催された「東北緩和ケア研究会」で私が発表した「いかに生きいかに死ぬか ~緩和ケア医療に学ぶ 生活に生かす仏教~」について三回に亘って述べましたが、今回から身近な方々の死について紹介すると共に、それを通して人生の終わり方について考えてみたいと思います。ご承知のように私は住職ですので檀家さんの死に直面します。一方で私個人の付き合いの中での友人の死もあります。双方から考え深い死を選択したいと思います。
 はじめに今回から私の山形県立中央病院時代からの親友(M氏)の死を巡って2回に亘って述べます。今回はその一回目としてM氏との付き合いの内容について述べます。(今回は「死」と直接関係ない記述ですが、2回目の前段として必要と思いますので、ご了承下さい)

Ⅱ-92 友人Mさんの死 ① ~はじめに~

 ご案内のように、私は住職のかたわら、昭和54年から平成16年まで、山形県立中央病院に「医療福祉相談員」として25年の長きに亘って勤めさせて頂きました。この間、無二の親友として付き合ったのが、今回紹介のMさんです。M氏は昭和17年生まれで私の一年先輩、私が定年退職した平成16年の1年前に退職しました。しかし退職後も最低年に一回は、当時の仲間と共に当寺で新年会と称して飲み会を開き、一昨年の平成28年まで12年間、皆出席で旧交を暖めてきた仲間でした。ところが平成28年11月、ご家族の懸命な看護と介護の中、在宅でお亡くなりました。実に身近な方の死でしたので、M氏とのお付き合いとご本人の希望通り在宅で亡くなった経緯を紹介し、人生の終わり方について考えてみたいと思います。
 尚、当ホームページにM氏からの手紙を含めM氏との経緯を掲載することについて奥様から承諾を頂いていることを付記します。

Ⅱ-93 友人Mさんの死 ② ~野球部づくりをとおして~

大自然 北米・グランドキャニオン

 M氏と私の職種は全く異なり、仕事上のお付き合いはありませんでした。1,000人程の職員の中で、親友という関係にまでなったのは、院内の野球部を通してでした。私も彼も野球が大好きだったのです。私が昭和54年に赴任した時にも野球部はあったのですが、当時は部員も少ないだけでなく、対外試合の機会があるときにその都度組織されるような「部」としてはまだまだの状態でした。
 この様な中で、前職場で野球をやっていた私が監督、M氏がチーフマネージャーとなり、院内野球部を立ち上げたのです。以後、院長をはじめとする全管理職の方々は勿論、全職種・全職域、そして女性看護師さんも入部し、部員は100人を越え、任意団体としては組合に次ぐ大きな組織となったのです。ここまで野球部が大きくなった最大の要因は、毎月発行された「野球部報」にあります。この部報はM氏が自らの才覚を発揮して編集・作成し、野球部活動の報告を中心に「暑気払い」「忘年会」等の行事予定、部員紹介等々の記事を載せて、院内全職場、管理職全員に配布されたのです。これにより野球部を知らない人は院内には居ないという状況になったのでした。

Ⅱ-94 友人Mさんの死 ③ ~盛り上がる野球~

 M氏と私のコンビは院内野球にとどまりませんでした。山形市内にある病院に呼びかけ、8病院による「山形市病院野球機構」を設立、M氏がマネージャー、私が世話人代表となってリーグ戦を行ったのでした。M氏は球場の手配、各チームとの連絡調整を担当し、長年組織を守り発展させ、病院相互の親睦の要となったのです。

Ⅱ-95 友人Mさんの死 ④ ~盛り上がる各種行事 ⅰ~

 100人を超える部員、その中で実際に野球をする人(選手)は25人前後でしたが、会費は全員から月1,000円を頂く大変裕福な野球部としても名を馳せることになりました。選手以外の人は宴会参加者でした。山形は温泉地に恵まれ、山形市内とその周辺にも多くの温泉があります。このような環境から「忘年会は温泉旅館で一泊」は当たり前でした。特に当野球部の温泉旅館一泊忘年会は大盛り上がりです。院長をはじめとする管理者は勿論、50人前後の参加者で寸劇、ゲーム、歌等々、病棟や各職場の忘年会とは一味違った大忘年会。特に県庁関係から病院に転勤して初めて参加した事務職員はビックリ仰天、「こんな出し物が多く面白い忘年会は初めて!」と。又、毎年利用している旅館の従業員さん達も私達の忘年会を楽しみにしているほどだったのです。
 これ等を準備する「忘年会準備委員会」の中心に、やはりM氏が居たのです。

Ⅱ-96 友人Mさんの死 ⑤ ~盛り上がる各種行事 ⅱ~

 お金持ちの野球部は、とんでもない行事を敢行したのです。東京ドームを早朝1時間30分借り切ってしまったのです。当時の東京ドームは、プロ野球などのナイター終了後の深夜から朝方にかけて1時間30分単位に球場を貸し出していました(記憶では40万円だったと思うのですが)。当局の意向として「24時間屋根を膨らませておくための費用対策」ということでした。ということで、金余り(?)の野球部が夢の東京ドームを借り切ったのです。ドームに出かけたのは部員に限らず、家族もOKということで、家族サービスを敢行し、山形新幹線一両の半分ほどを占めて上京したのでした。
 ドームに入ったときの視野は驚きものでした。何回か野球観戦した経験があるものの、客席から眺める景色と、グランドから眺めるそれとはまるで異なる景色なのです。感激と感動の中、ブルペンの椅子に座り「この椅子はいつも長島監督が座っている椅子だ」、マウンドに行き「昨日、牧原がここから投げたんだ」等々、暫くはキャッチボールもせずドームに魅せられてしまいました。  又、別の年には、やはり部費を活用して家族同伴の東京・隅田川の屋台船にも乗船。借り切った船で揚げたての天ぷらとビールに浸ったのでした。
 この様な企画も、全てM氏との相談で実施できたものです。

Ⅱ-97 友人Mさんの死 ⑥ ~定年退職とその後の付き合いとM氏の病気~

 平成15年、M氏が定年退職。翌年私も続きました。冒頭で記述したように、退職後も当寺で行う新年会で少なくとも年一回は再会していたのですが、M氏は退職して数年後に「肺気腫」の診断を受け、その翌年には酸素ボンベを携帯しながら来寺するようになったのです。しかし美味そうに酒を呑み談笑する姿からはまだまだ元気でいられると私を含め参加メンバー達は考えていたのです。事実、一度の欠席もありませんでした。