いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第161回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

180~184

「四法印について」

 この項の前回までは、仏教の根本的教えであると共に実践的原理(課題)でもある「四諦・八正道(したいはっしょうどう)」の後半について述べるとともに、当圓應寺で使用している「圓應寺勤行聖典」を紹介しました。今回は、仏教の基本的な教え「四法印」について述べます。

Ⅴ-180 四法印とは

宗派イラストより 転載不可以下同様

 お釈迦様が説いた多くの教えの中の基本的な教えに「四法印」があります。その「法印」とは、「仏教の教え(仏法)の特徴(印)」という意味で「四法印」は仏教の教えを特徴的に表わす四つの考え方。具体的には、①諸行無常(しょぎょうむじょう)、②諸法無我(しょぎょうむが)、③一切皆苦(いっさいかいく)、④涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)です。順次4項目を考えます。

Ⅴ-181「四法印」 ① ~諸行無常~

 全てのものは移り変わり、変化しないものは何一つ無いという意味です。「諸行」とは、あらゆる現象のことで、「無常」とは常なることはない、つまり変化しないものは無いという意味です。つまりこの世の全ては、形も本質も常に変化するもので同じ状態にとどまることは無い。地位や名誉、人間関係そして命そのものも変化し続けているのです。諸行無常でよくく取り上げられる「色は匂へどちりぬるを」で始まる「いろは歌」は余りにも有名であり、この「諸行無常」を冒頭で歌い上げた傑作です。尚、この歌は弘法大師作との説もありましたが、以前にも述べましたようにお大師様の時代と一致しないということで、お大師様の作ではないというのが定説になって来たようです。余りにも見事な歌のため、お大師様以外には作れないのではないかという発想が、「弘法大師作」という説を生み出したのでしょうか。

 尚、この「諸行無常」については、2011年9月「仏教の教えの基本」も参照下さい。

Ⅴ-182 「四法印」② ~諸法無我~

 全てのものは、因縁によって生じたものであり、固定的な本体や実態はないということです。「諸法」とは、前項①の諸行無常の「諸行」と同じ意味で、あらゆる現象のことです。又「無我」とは永遠不滅の存在という実体や本体はないと言う意味です。したがって、全ての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことを言います。さきほどの諸行無常の考え方でもわかるように刻々と変化するなかで、私自身も常に変化をします。当たり前のことですが、今の私で居続けることは出来ないのです。自然界では命が影響をしあい絶妙なバランスの上に成り立っているように。「水が条件によって、お湯になり水蒸気になり雲になり雨になり、雪になって氷河になるように」(東光院新聞より)。

Ⅴ-183「四法印」③~一切皆苦~

 苦とは、「思い通りにならないことによる心痛」のことをいいます。具体的には2023年10月「四諦・八正道」で述べた「生・老・病・死」の四苦と愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を加えた四苦八苦を参照ください。諸行無常・諸法無我を理解すれば私達に思いどおりに出来るものなどないということに気がつきますが、私達は「こうしたい、ああしたい、こうあって欲しい」などの心が常に出てしまいます。これを仏教では〝執着〟と呼び、この執着が苦の根本原因であると説かれています。

Ⅴ-184「四法印」④~涅槃寂静~

 諸行無常・諸法無我を理解し受け容れ、煩悩という苦から解放された安らかで静かになった境地のことです。これによって、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる。これが仏教の目指す“さとり”の境地なのです。