いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第151回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

169-174

「「四諦・八正道(したいはっしょうどう)」について」

 この項の前回までは、六波羅蜜について2回に亘って述べました。今回から、2回に亘って、仏教の根本的教えであると共に実践的原理(課題)でもある「四諦・八正道(したいはっしょうどう)」について述べます。尚、いつもお断りしていますが、この件についても専門の学者や高僧が多くの書籍を出していますので、より深く考え、勉強される方はそれらの書籍をご覧頂きたいと思います。今回はその一回目です。

Ⅴ-169 お釈迦様が初めての説法で説いた四諦・八正道

初転法輪の場・サルナート

 2500年前、お釈迦様が悟りを開いてインド・サールナートの地で初めて5人の修行僧を前に説かれた内容が「四諦・八正道」の教えです。ここでは先に「四諦」を取り上げその後で「八正道」について述べることにします。

 さて、四諦は四聖諦(ししょうたい)とも呼ばれますが、その「諦」とはどういうことでしょうか。諦はサンスクリット語の「サチヤ」の日本語訳で真理、真実の意味を持ちます。したがって四諦は人生における根本的な四つの真理・真実という意味です。

※この初めての説法を初転法輪(しょてんぼうりん)と言いますが、このⅤ「仏教に見る祈りと教え」の項の最初の記述に当たる第6回(2011年9月)で当時の私の切り口で「仏教の教えの基本」を述べております。又、第11回(2012年2月)で、悟りを開いた経緯。更に16回(2012年7月)で初転法輪の地・サールナートなどを写真付きで紹介しておりますので参照ください。

Ⅴ-170 「四諦」 ~ 第一の諦は「苦諦」① ~

青葉祭り (宗派イラストより 転載不可以下同様 )

 繰り返しになりますが、「四諦」は字のごとく四つの真実です。その第一の諦は、この世は苦であるという真理・「苦諦(くたい)」です。苦諦とは、「生・老・病・死」の「四苦」と「愛別離苦(あいべつりく)」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとっく)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の「四苦」を加えた四苦+四苦→八苦を意味するのです。

 但し、大切なことですがここで言う「苦」とは、日常私たちが使っている「苦しみ」という意味ではありません。「自分の思い通りにならない」と言う意味の「苦しみ」です。このことを踏まえて「苦諦」(八苦)の内容について述べることにします。

 はじめに最初の四苦である「生・老・病・死」について述べます。先ず「生」です。生とは「生まれる」とか、「生きる」ことについての苦です。人は母親の狭い産道を通って誕生します。そして当然ながら生まれる国、家、誰を両親に持つかなど自由に選べることは出来ないのです。現実は現実として認めて生きていくしかないのです。

 「老」は、誰でもどんな人でも一年一年歳をとり、やがては老人になります。若くして出来たことが体力や気力そして知力の減退と共に少しずつですが、出来なくなるという現実を目の当たりにするのです。不肖私自身、傘寿を迎え、物覚えや記憶力の衰え、境内のチョットした清掃での疲れ、そして何よりも顕著なのは、長年のウオーキング(6キロ少し)の所要時間は以前の一時間以内から今は65分を超え、時には70分近くにもなっているのです。体力の衰え、老化の数値を毎日実感させられているのです。

 「病」は、病気になることです。若いうちは「医者いらず」の時代があったとしても、歳を重ねるにしたがって何らかの病に罹患することになります。これも私自身、勤務先の病院を退職した頃から循環器、消化器に疾患を抱え、受診と服薬を続け、「医者通いが大仕事」となっているのです。よく祈願法要で「無病息災」とお唱えしているのですが、法要の後で「実は無病ではなく、三病息災かなぁ・・・、病気とうまくつきあって行くこと」等と話しているところです。

 「死」は、万人が迎える人生の終演です。どこかの王様が「死なない薬草を探せ」と命令したという昔の物語がありましたが、そのようなものはあるはずもなく、誰にでも来る「死」をどのように迎えるかが課題となっています。いつも私が掲げている、限られた人生を「いかに生きいかに死ぬか」が私たちの大きな課題になります。

 以上の四苦が避けることの出来ない私たち人間の根源的な苦ということなのです。

※この苦を総称して「四苦八苦」と言いますが、四苦+八苦ではなく上記のように、四苦+四苦を総称して「四苦八苦」と言います。

Ⅴ-171 「四諦」 ~ 第一の諦は「苦諦」② ~

(宗派イラストより 転載不可以下同様 )

 前項の四苦「生・老・病・死」に次の四苦を加え、「八苦」となります。5番目は「愛別離苦(あいべつりく)」です。これは、夫婦であれ親子であれ大切な人・愛する人であってもいつかは分かれなければならないという苦しみです。「会うは別れのはじめ」なのです。

 6番目は「怨憎会苦(おんぞうえく)」です。「愛別離苦」とは逆に、嫌いな人嫌な人にも出会うということです。場合によっては人に出会うことだけでなく、嫌な仕事なども含まれます。問題はそのような人や仕事に出会ったとしてもその出会いが瞬時とは限りません。様々な事情から日々を重ね、場合によっては「長年に亘っての出会い」となることもあるのです。だからこそ「苦」なのです。

 7番目は「求不得苦(ぐふとっく)」です。これは、求めても手に入らない苦しみです。そして求めたものが手に入ったとしても、その上で又求めたいものが次々と出てくる「苦」のことです。この「苦」については、先月(2023年9月)掲載した「Ⅳ日々の生活の質をいかに高めるか」の164項「NHKテレビ『おしん』から」でも、欲が欲を呼ぶ私たちの弱さについて触れましたので参照ください。

 最後の8番目は「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」です。これは私たちの身体と心を構成している五つの要素から生まれる「苦」のことです。仏教では私たちの身体は五の要素で構成されていると考えました。その五つの要素とは、皆さんもよくご存じのあの般若心経にある「色、受、想、行、識」のことです。具体的には、「色」は形あるもので物質的存在の総称ですが、ここでは身体の機能が活発であるために起こる苦しみを意味しています。「受」は、肉体的、生理的な感覚で外界からの刺激を受ける「心」の機能。「想」は事物を心の中に思い浮かべることで、見たものについて何事かをイメージする「心」の機能。「行」は何らかの意志判断を下す「心」の機能。「識」は外的刺激と内的意思判断を統合して状況判断を下す「認識作用」のことです。ずいぶん難しい内容の五蘊盛苦ですが、要は自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない「苦」のことです。

Ⅴ-172 「四諦」 ~ 第二の諦は「集諦」 ~

(宗派イラストより 転載不可以下同様 )

 四諦の2番目は「集諦(じったい)」です。「集」とは(苦を)招き集めるという意味で、苦を招き集めるのは煩悩とされています。したがって「集諦」は欲望(煩悩)の尽きないことが「苦」を生み出す原因であるという真理を意味します。煩悩には慳貪(けんどん 貪欲に執着すること)、瞋恚(しんに 怒り、いきどおること)等が代表的でしょうか。

Ⅴ-173 「四諦」 ~ 第三の諦は「滅諦」 ~

(宗派イラストより 転載不可以下同様 )

 四諦の3番目は「滅諦(めったい)」です。欲望や執着を断ち、苦がなくなった状態が理想の世界であり、悟りの世界という意味です。様々な現実をそのまま受け入れ、自分の価値観や生き方を調えることが求められるのです。

Ⅴ-174 「四諦」 ~ 第四の諦は「道諦」 ~

(宗派イラストより 転載不可以下同様 )

 四諦の4番目は「道諦(どうたい)」です。悟りに至るための実践という真理です。煩悩をなくし、悟りを得て苦をなくすため、次の八正道を実践するということです。八正道についてはこの項の次回で述べます。