圓應寺 住職法話
住職法話 第113回
緩和ケア医療に学ぶ生と死
【生と死の考察】118~121
「印象に残る檀家さんの死」
前回のこの項では、檀家さんの中で印象に残る方の死についての3回目としてU氏について前半の部分を紹介しました。
今回は4回目としてU氏の後半を紹介します。
Ⅱ-118 印象に残る檀家さんの死 ④-ⅳ ~ 緩和ケア病棟を紹介できた死 ~
数日後、ご本人から「緩和ケアの外来に行き、病棟のことなどをいろいろ聴いてみることにした」との電話がありました。
その日から一ヶ月ほど経過したある日、ご本人から「明日、緩和ケア病棟に入院することになりました」との連絡が入りました。早速私は、翌日の午後病棟にU氏を訪ねました。「日中一人で家に居ると心細くなるし、だんだん体調も悪くなり、急に具合悪くなった時のことを思うと不安になってきて…妻には勤めを休んで貰っている。妻は一日中看病生活で疲れもひどくて…」と。
その日の私は、翌日に海外に仏教施設を訪ねる日でした。「土産話に又来るから!」「待ってる!」と言い交わして私は旅立ったのでした。
Ⅱ-119 印象に残る檀家さんの死 ④-ⅴ ~ 緩和ケア病棟を紹介できた死 ~
ところが帰国する前日、海外にいた私の電話にU氏が突然旅立ってしまった連絡が入ったのです。枕経を法類寺院(親戚寺)にお願いし、帰国後に無事導師として葬儀を執り行いました。諷誦文(フジュノモン、一般的には引導文)では昔からのU氏と私の関係から緩和ケア病棟入院に至る経過にも触れ、「密厳浄土」にお見送りをしました(諷誦文の要約はこの項の最後に掲載)。
奥様にお聴きしたところによると「入院当初はそれなりに元気で、痛みの緩和も順調。『入院して良かった』と喜んでいた」そうですが、突然の旅立ちだったとのことでした。
Ⅱ-120 印象に残る檀家さんの死 ④-ⅵ ~ 緩和ケア病棟を紹介できた死 ~
後日、かつて一緒に仕事をした病棟の師長さんと病棟医長にご挨拶をしましたが、その際「余命予測は難しいが、Uさんがあんなに早く逝くとは思っていなかった」とのことで、スタッフにとっても予想外の早さだったとのことでした。
死をどこで迎えるか、多くの人は「出来れば自宅で」との希望ですが、実際はなかなか難しいのが現実です。私は、「何が何でも自宅で最期を迎えるべきだ」とは思いません。希望に添って出来るだけ在宅死のための努力と手立てをすべきだとは思いますが、その在宅療養の過程で、入院に切り替えることも選択肢として大いにあることではないかと思っています。
U氏の場合、奥さんを中心に在宅医療に努力を重ねた上で、ご本人を含めてある時点から入院医療を選択しました。ご本人と奥さんにとって最良の選択ではなかったのかと思います。
わずか一週間超の緩和ケア病棟でしたが、そこに至る過程を含め、故人と奥さんのために少しは役立ったのか…?と。
Ⅱ-121 印象に残る檀家さんの死 ④-ⅶ ~ 緩和ケア病棟を紹介できた死 ~
ここに葬儀で読み上げた諷誦文の要約を掲載することにします。なお、個人情報に深く関係するところは削除しております。
謹んで回向し奉る精霊は
新円寂、〇〇〇〇〇〇居士。
居士、昭和〇年〇月〇日、山形市〇町に於いて、父・〇〇、母・〇〇殿の二男として生を受く。
〇〇高校を卒業後、直ちに当時の〇〇社に入社。長期間に亘り〇〇機械の調整工として勤務。この間、会社の〇〇部マネージャー、〇〇の役職などを歴任し活躍の場を広げることに。
されど54歳時に胃がんを発症、定年前の退社を選択。
居士、現役時より家族・家庭の融和に心を注ぎ家族団らんの地を国内・海外に求め、数々の旅行を敢行する。今やこれこそ〇〇家の想いの財産に。
居士、拙衲にとっても思い出新たなり。幼少期の居士、かつての〇〇地区に住居し、住職の同級生兄・〇〇氏の弟としてよくよく遊びし仲間、時には〇〇家の風呂に共に入った肌合いの仲なり。
晩年、病魔との闘いを強いられ、一時は病を克服も再発。
居士、本年2月、住職を尋ね「余命半年と言われた、住職宜しく頼む」と。
その後病状は次第に進む中、住職がかつて勤務した県立中央病院緩和ケア病棟を紹介・入院となり、去る〇月〇日病床を訪問。以前に比べ痩せてはいたものの比較的元気な姿に、「住職は明日から海外出張、帰国したら土産話に又来るから」に、「楽しみにしている」と。
まことに残念、土産話聴くことなく去る〇月〇日突如として不快の状を現し、永く黄泉の旅路に趣くことに。
居士、懐かしの我が家、思い出の故郷、思い出の友の全てを捨て、大慈大悲の雲にのり、安養の浄土に生まれて仏天に生を享け、大安心の境に安住を得給え。