いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第96回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

102~106

「弘法大師・空海 名言3」

 前々回のこの項では、お大師さまの名言をシリーズで紹介しましたが、前回は一時中断して2018年6月23日の沖縄県「慰霊の日」に浦添市立滝川中学3年生・相良倫子(サガラリンコ 14歳)さんが読み上げた平和の詩「生きる」を「14歳の仏様の教え」という想いを込めて紹介しました。
 今回はお大師様名言シリーズの続き(3回目)です。これまでも述べましたが、お大師様の名言は沢山あり、その中でも私がよく使わせて頂いているものを紹介しています。その他の名言については、「言い伝え」同様に専門家が多くの書籍で紹介しておりますのでそちらをご覧下さい。

Ⅴ-102 空海の名言 ⑪

霧に包まれる圓應寺

「良工(りょうこう)は先(ま)ずその刀を利(と)くす、能書(のうしょ)は必ず好筆(こうひつ)を用う」(「遍照発揮性霊集」)

 「腕の良い大工さんは、先ずカンナやノコギリの刃をよく研ぐように、筆達者の人も良い筆を用いる」という意味でしょうか。
昔からお大師様は、同じ時代に生きた嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)と共に「日本三筆」と呼ばれた達筆家として知られており、いつからどの様な人が言い出したかは知りませんが「弘法筆を選ばず」という諺もあります。しかしこの諺とは裏腹にお大師様は良い筆を選んでいたようなのです。野球の達人イチローは一流のバットやグラブを大切に使っているとのことです。この様に腕の良い大工も先ず道具を研ぎ、達筆家は良い筆を大事に使うということなのです。「弘法は筆を選ぶ」のです。

Ⅴ-103 空海の名言 ⑫

「大士の用心は、同時にこれ貴ぶ」(「高野雑筆集」)

 「菩薩の心構えは、相手と同じ目の高さになって対応すること。これが一番貴いことである」という意味です。「大士」とは「菩薩」の別名です。人と人の付き合いは、上から目線では上手くいきません。やはり同じ目の高さで接することが大切です。私の医療福祉相談員としての経験ですが、ベッドサイドで患者さんの相談を受ける際はベッドの高さまで身をかがめるか、椅子に座って話をするように心掛けました。立ったままでは相談を受ける態勢ではないからです。この姿勢は医師、看護師にも求められることですが、超忙しい職場では中々思うようにはなりません。但し、緩和ケア病棟では同じ目線に留意し、同じ目線の姿を良く目にしたものです。
 この姿勢は、住職としても同じことです。住職は、一般の会社では組織の代表者か社長に相当するかも知れませんが、檀家さんからの相談などを受ける場合は、互いに座しているため、姿勢は同じ目線になりますが、気の持ち方が同一線になるよう心掛けています(偉そうな坊主にならないように)。

Ⅴ-104 平空海の名言 ⑬-ⅰ

「六大の遍ずる所、これ我が身なり」(「続遍照発揮性霊集」)

 「地水火風空識(六大)がゆきわたっているところが、自分の体である」ということでしょうか。
 仏教では、全ての存在は地水火風空の五大(古来インドでは「空」を除いた四大、東洋に渡って五大)から成り立っていると考えています。「地」は大地で堅さと保持を特質とし、「水」は水そのもの、「火」は火焔(太陽)で温かさをもち、「風」は動く性質を持ち物を成長させ、「空」は一切を存在させる空間です。更に真言密教ではこの五大に精神性を持った「識」を加えて「六大」が全ての存在要素であると説いています。これが真言宗の宗祖・空海(弘法大師)が日本に持ち帰って完成した密教の世界観なのです。この様な考え方から私達の体そのものも六代が遍く行き渡っているということなのです。

Ⅴ-105 空海の名言 ⑬-ⅱ

永代供養塔の五輪塔

「六大の遍ずる所、これ我が身なり」

 前項で述べた「五大」を現したものに「五輪塔」があります。この項は直接「空海の名言」ではありませんが、五大の関係で五輪塔(ごりんとう)について触れます。 五輪塔はお墓や供養塔として建てられます。写真は2016年に永代供養塔の象徴として建立した五輪塔です(次の写真も参照)。下から方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪で構成し、正面に梵字で地「ア」、水「バ」、火「ラ」、風「カ」、空「キャ」を刻み五大を表しました。写真には写っていませんが、当圓應寺は真言密教の寺院ですので、各輪の四面にも五大の梵字を刻みました。

Ⅴ-106 空海の名言 ⑭

「道を聞いて動かずんば、千里いづくんか見ん」(性霊集)

 「いくら立派な教えを聞いても、自分で体を動かし実際に動かなければ、千里の道は一歩も進むことはできない」という意味です。仏教の教えを耳で聞くだけで修行と実践を伴わなければ本当の教えを理解できず悟りの道にも近づけないということになります。これは私達の生活においても同様であり、知識だけではダメで行動と実践があってこそ本物になるということを言い現しているのではないでしょうか。