いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第86回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

86~90

「弘法大師・空海 名言2」

 前回のこの項では、お大師さまの名言を紹介しましたが、今回はその続きです。前回も述べましたが、御大師様の名言は沢山あり、その中でも私がよく使わせて頂いているものを紹介しています。その他の名言については、「言い伝え」同様に専門家が多くの書籍で紹介しておりますのでそちらをご覧下さい。

Ⅴ-86 空海の名言 ⑥

『強弱他(ほか)に非ず、我が心(しん)能(よ)くなす』(性霊集第八)

 大般若経を転読する願文に出てくるものです。心の強弱は、他の力によるものではなく、自分の心によって起きます。つまりどんな事も、プラスにするかマイナスにするかは、自分自身の判断によるのです。
 自分の思いに自信を持って進むときがある一方、心が折れ欲に執着してしまうときもあります。このような心に強弱が生まれる原因は、自分の心の中にあるのです。「物事が上手くいかなかったことを他人のせいにすることなく、先ずは自分の心に問いただしてみよう」ということでしょうか。

Ⅴ-87 空海の名言 ⑦

『良工(リョウコウ)は、その木を屈せずして厦を構う(カヲカマウ)』 (性霊集)

 「腕の良い大工は、真っ直ぐ伸びた木はそのまま真っ直ぐ使い、曲がった木はその特性を生かした使い方をして家を建てる」ということでしょうか。確かに歴史ある本堂や木造の古民家などを見ると、天井の梁には真っ直ぐのものだけではなく、曲がった木材を堂々と使っているものをよく見かけるものです。
 さて、この名言には「聖君の人を使う、その性を奪わずして所を得しむ・・・」という続きがあります。したがって大工の腕を例に、「主君は、人の性格・特技・能力・などに合わせてポストを与え、成功に導く」と言われました。この内容はそのまま現代社会にも相通ずるものと言えるのではないでしょうか。但し、最近の政界でよく使われる「適材適所」とは少しばかり異なるように思われるのですが……。

Ⅴ-88 空海の名言 ⑧

『一手拍を成さず、片脚歩むこと能(アタ)わず』(高野雑筆集)

 「一手では拍手ができず、片脚だけではなかなか歩くことができない」という意味ですが、それにとどまらず、人の世界は単独では生きられないこと、人と人の繋がりがあってこその人生であることを物語っているのです。さらには信心深くつとめる私達とそれを導き受け止めて頂く仏様の関係でもあるのではないでしょうか。
 視点を変え、パラリンピックの精神から考えたいと思います。この空海の名言⑧は、一応片手片脚では出来ないという視点からのものですが、今年(2018年3月)開催された冬期パラリンピック平昌大会で、日本は10個のメダルを獲得しました。中でもアルペンスキー女子座位で金1個を含むメダル5個を獲得した村岡桃佳選手の活躍に涌きました。
 選手達の成績は素晴らしいものでしたが、その成績は別にして身体に障害がある選手の活躍に目を見張りました。障害を感じさせない活躍だったからです。かつて第二次世界大戦で傷痍軍人となった人々の治療に貢献した医師・グットマンの言葉「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」との精神が最大限生かされている姿を見せて頂いた想いでした。

Ⅴ-89 空海の名言 ⑨

『言(い)って行(ぎょう)ぜざれば、信修(しんしゅ)とするに足らず』(「続遍照発揮性霊集」)

 「言うだけで実行がともなわないのは、信心修行していることにならない」との意味ですが、この名言(文章)は、弘法大師が弘仁4(813)年、天台宗の開祖・伝教大師最澄に宛てた手紙の中にあるものです。弘法大師が唐から持ち帰った密教の極意本「理趣経」(毎朝の勤行そして日常の法要で読経しているお経です)を伝教大師が借用を申し込んだことに対して、断りを入れた文章の一節です。
 それは、密教は理論だけでなく、行法(修行、実践)が大切であり、それがともなわなければ無意味であり、空論になるとの考えなのです。
 私達の日常にも「頭でっかち」「理屈っぽい」などの例えがありますが、2012年ノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥氏の「成功に至るまでの過程は失敗の連続。失敗を重ねた先に成功があった」旨の語りを思い起こします。失敗の連続、つまり実践の積み重ねがあったからこその成功なのでした。

Ⅴ-90 空海の名言 ⑩

『十界の有る所、これ我が心なり』(「続遍照発揮性霊集」)

 「自分の心の中には、十の世界がある」と言うことです。仏教には生死を繰り返す「六道」(六道輪廻)の世界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界) に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えた「十界」という考え方があります。この十界は、輪廻転生を発展させたものということだけでなく、私達人間の心の状態を説明しているとも言われています。 具体的に十界を見たいと思います。

① 地獄界六道そして十界の最下層に位置し、生前最も罪の重い者が落とされ、火焔やその熱気で苦しめられる世界。
② 餓鬼界常に飢えと乾きに苦しむ世界。食物や飲物を手にすると瞬く間に火炎となってしまう。
③ 畜生界畜生の本能のままに行動する弱肉強食の世界。
④ 修羅界武力をもって争いごとが絶えない世界
⑤ 人間界平均的な能力や頭脳を持つ人間世界で、四苦八苦の世界。
⑥ 天上界この世界も六道の一つであり、永遠の場ではなく死ねば又、他の六道の世界に
⑦ 声聞界仏法を学び、一部の悟りを獲得した世界
⑧ 縁覚界さまざまな事象を縁として捉え、一部分の悟りを得た世界
⑨ 菩薩界智慧を積み修行を続けている慈悲の世界
⑩ 仏 界衆生を慈悲心や智慧によって救済する世界で、全てのものに執着がない世界

 以上が「十界」ですが、①~⑥を「六道」、⑦~⑩を「四聖(シショウ)」と言い、「六道」は転生する世界をそれぞれ表し、「四聖」は仏道修行により、到達できる世界を表したものです。
 さて、冒頭の説明文に「自分の心の中には、十の世界がある」と述べましたが、この名言は私達の心の在り方をも説明しているとも言われているのです。つまり私達の心には仏さまや菩薩様のように優しい慈悲の心もありますし、逆に瞋り(修羅)の心やむさぼり(餓鬼)の心も持ち合わせています。時に、悪いことが重なると、苦しみのどん底(地獄)に落ち込んでしまいます。このことから、私達、一人一人の心の中に、十界の全てがあると言われているのです。