いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第66回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

65~69

「弘法大師・空海 帰国後の活動」

 前回のこの項では、 現在の青龍寺を中心に述べましたが、今回は真言宗の開祖である弘法大師・空海が日本に帰ってからの活動の概略について述べます。

Ⅴ-65 都入りが認められ空海は京都に 

空海記念碑を前に

 さて、前にも述べましたように、空海は20年の留学を2年という短期間で帰国したため、都入りが認められず、太宰府に数年間滞在せざるをえない状況下に置かれました。 ようやく入京が認められた空海は、京の高尾山寺(後の神護寺)に入り、結縁灌頂(密教儀式の一つで、仏縁を結ぶために真っ暗な状態の中で曼荼羅の上に花を投げ,花が落ちた尊像をその人と有縁の仏とする儀式)を開壇し、恵果和尚に託された密教の布教に立ち上がったのです。 入壇者の中には、天台宗の開祖・最澄もいました。空海と最澄は、この後暫く交流を持つことになるものの、最澄の密教の位置づけと空海の密教一筋の考え方の違いもあり、二人は決別することになります。 一説には最澄が密教経典「理趣経」の注釈書の借用を申し出て空海が断ったという経緯もあると言われています。

Ⅴ-66 東寺を賜り、真言密教の道場に

東寺を前に御詠歌講中の皆さんと

 空海は以後、高野山と東寺に於いて本格的な布教活動に入りました。弘仁14(823)年、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としたのです。 後に天台宗の密教を「台密」、対して東寺の密教を「東密」と呼ぶようになります。
 一方で空海は日本最初の庶民向け学校と言われる「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創設しました。当時、貴族の学校はあったのですが、一般の人たちが 勉強する学校はありませんでした。空海は、だれでも勉強できるよう学校を創ったのです。この学校は、現在真言系の「智種院大学」としてその伝統が引き継がれています。

Ⅴ-67 満濃池の改修

 弘仁12(821)年、度々の氾濫で住民を苦しめていた満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある周囲16㎞に及ぶ日本最大の農業用ため池)の改修を指揮し、 当時の最新工法を駆使して工事を完成させました。
 この満濃池は、雨の少ない瀬戸内海気候の地方にあって、灌漑用水を溜おく大切な池ですが、当時は堤防の決壊を繰り返していたと言われます。 空海は改修工事の指揮官として僅か3ヶ月の短期間で工事を関係させたのです。以後、決壊はなくなったと伝えられています。

Ⅴ-68 高野山を真言密教の根本道場に

高野山真言宗総本山・金剛峯寺

 空海は真言密教を広める根本道場を建立する場所を探し、各地を巡った上で高野山にその地を探し当てたのです。高野山には蓮の花びら様の広い平地があると共に、 空海が唐の国から帰国する際に浜辺から投げた三鈷(密教の法具の一種で、煩悩を断ちきり菩提心を保つための法具)が、この高野山の松の枝に引っ掛かっていたとの伝説もあるのです。
 弘仁7(816)年、嵯峨天皇から許可を賜り、堂塔・伽藍を建て、真言密教の根本道場としたのです。 以前にも述べましたが、2015年は高野山開創1200年の記念となる年でした。残念ながら私はお参りに行くことは出来ませんでしたが、 大変な賑わいの山上であったと伺っております。弘法大師空海は唐の国から帰国して12年後に高野山を開創したのでした。

Ⅴ-69 入滅

高野山・奥の院を望む

 空海は、承和2(835)年、3月15日、高野山で一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて大日如来の定印を結び、一週間後の3月21日、享年62歳で入滅したのです。 入滅から51日目、空海自身の意志により奥之院の霊廟に納められました。
 真言宗では、宗祖空海(後に「弘法大師」)を敬い、その入滅を「入定」とし、空海は今も生き続けているとしているのです。 したがって高野山では毎日御大師様にお食事を差し上げています。「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれるその儀式は、朝の6時と10時半の2回、行われています。