いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第19回

有限の人生そして死を意識して
【「いのち」の考察】14~17

「“いのち”とは何か なぜ尊いのか 3」

前回のこの項に引き続いて、「『いのち』とは何か 何故尊いのか」について述べます。

Ⅲ-14.「いのち」とは何か なぜ尊いのか ⑪

 この項の先回(第14回の「Ⅲ.有限の人生そして「死」を意識して」参照)でも一部触れましたが、科学が進んだ現代にあっても私達人間の手で「いのちを」つくることは出来ません。自動車、新幹線、さらには飛行機等々を制作することは出来ますが、毎日食しているご飯(お米)すら私達はつくることは出来ません。米は、稲が自らの子孫を残すために作り出す種実です。私達は稲を育てたり改良は出来ますが、稲そのものをつくり出すことは出来ないのです。ましてや人の「いのち」、つまり子供をつくることは出来ません。日常、「子供をつくる」といった会話がありますが、本当は「子供が生まれ」「子供に恵まれ」そして育てるということなのです。「いのち」そのものは科学力によってつくることは出来ないのです。

Ⅲ-15.「いのち」とは何か なぜ尊いのか ⑫

【生きること 命をつなぐことに懸命だった人の歴史】

 人類の平均寿命の変遷は、いろいろなデーターがあると思いますが、鎌田實著「がんばらない」によりますとその歴史は次のようになります。

 以上が平均寿命の歴史です。4千年の歴史の中で、特に江戸時代までは乳幼児の死亡率は極めて高く、大人まで成長(生き延びる)事は大変な時代であった事が分かります。まさに命を繋ぐことに懸命だった人の歴史と言えるのではないでしょうか。私たちの命は、この様な命の繋ぎを経て現在あるのです。
 その後、寿命はこの150年で大きく伸びたことになりますが、私の子供の頃は、「人生50年」と言われていましたので、急激に寿命が延びたのはこの50年と言えるでしょう。「人生古稀希なり」という言葉がありましたが、現在70歳の方はゴロゴロ(表現が悪くスイマセン!)いらっしゃいます。この言葉はとっくに死語になってしまいました。

Ⅲ-16.「いのち」とは何か なぜ尊いのか ⑬

【貴重な命のリレー】

 私たちの命は、当然ながら父と母の命によって誕生しています。その両親には又両親がおります。僅か10代遡るだけで、1000人の「親」が確実にいたのです。
 10代前は大昔という感じがありますが、実はそんなに昔のことではないのです。一昔は親になる年齢が早く、20歳で親になると仮定した場合、200年前、つまり江戸時代も最晩年の頃ということになるのです。20代遡ると100万人の親そして30代となると10億7千万人という途方もない人数となります。しかしその多くのご先祖はくどいようですが、確実にいたのです。しかもその人々が乳幼児時期に亡くなることなく親となる年齢まで成長したのです。その実に多くのご先祖の内、たった一人が欠けても命のリレーはとぎれてしまったのです。そうです!今の私、貴方の誕生はなかったことになるのです。私たちの命は奇跡的に繋がってきた実に貴重な命なのです。

山形県・最上川源流

Ⅲ-17.「いのち」とは何か なぜ尊いのか ⑭

境内に咲くサクラソウ

【「老人」は何歳から?】

 「老人」は何歳からの呼称でしょうか。現在は国の統計でも65歳以上であり、世界的にも65歳以上となっているようです。しかしこの「老人」の概念は、時代・寿命と共に変化しているようです。20年前は60歳以上、30年前は55歳以上の概念でした。そして現在は、75歳以上を「後期高齢者」という余り歓迎されない呼称まで出現してしまいました。今後も平均寿命と健康寿命の関係で変わっていくのでしょうか。 次回のこの項も命の尊さについて述べたいと思います。