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住職法話 「いかに生き、いかに死ぬか」

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第93回

(平成30年12月1日)
U.緩和ケア医療に学ぶ生と死

前回のこの項では、私の山形県立中央病院時代からの親友・M氏の死について、その一回目として野球部を中心にしたM氏と私の付き合いについて述べましたが、今回はその続きで、在宅死と葬儀を中心に述べます。

U-98 友人Mさんの死 F 〜Mさんから突然の手紙〜

グランドキャニオン

平成28年7月、M氏から驚きの手紙が届きました。奥様の了解を得ましたので、プライベートな一部を除き、原文通り掲載します。

前略

 紫陽花の花の色も鮮やかな時期を迎えましたが、ご健勝にてご活躍のこととお慶び申し上げます。
 私ごとで、突然お便りする無礼をお許し下さい。恐らくは、これが最初で最後のことかもしれません。

 実は、5月23日、腰痛が余りにも厳しいので県立中央病院の整形外科外来でMR検査を受診しましたところ、「左腹部にカゲがある」と言われ、急遽、造影剤を静注して、MRとCTの精密検査を行いました。診断の結果は「膵臓ガン」で、しかも四段階のうちのレベル4、もはや手の施しようもなく、「六ヶ月」という説明を受けました。妻とともに、かすかな望みをかけていたのですが……やがて顔がこわばり、頭の中が真っ白になりました。
 子供達には疾病の内容が良くないことを説明し、今まで通りの生活を続けたいとお願いしました。
 また、妻と話をして私の兄弟や親戚には内緒にすることにしました。ソッとしてもらい静かに過ごせたら、と考えたからです。
 ただ、どうしても、これまで何かとお世話を戴いた埀石さんにだけは、生きている今、お礼を言わねばと思い筆を執った次第です。今思えば、病院勤務中、何か困ったことがあると、すぐ側にいつも埀石さんがいてくれたような気がします。だからこれまで無難に過ごせたのではないでしょうか。
 『身の程を弁えず、わがままばかり言ってすみません。私の人生の中で、この上なく、輝いた歳月を送らせてもらいました。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。』
 (また、折を見て正月に集う仲間の皆さんへお伝え願えれば幸いです。「皆さんに出逢えて本当に良かった。お世話になってありがとう」)

 今、「緩和医療科」で、これからの過ごし方や介護等について指導を受けております。Xデーがいつ来るのかわかりませんが、家族や周りの人達とも笑いを失わないように、また辛い顔を見せないようにしてはいるのですが、いつまで保てるか不安です。
 私は今思います。私の人生恵まれたものであったと。

 末尾ですが、私が言ってもちっとも説得力がないのですが、くれぐれも御身を大切にして下さい。自分一人だけの「命」ではないのです。(まだ命は尽きていませんが)お世話になりました。
本当にありがとうございました。草々
七月○日 埀石啓芳 様

U-99 友人Mさんの死 G 〜闘病とご家族の看護と介護〜

 前項の手紙にビックリ仰天!直ぐご自宅を訪問しました。当日は寝室から起き出して茶の間で会うことが出来ました。「いつお迎え来るか分からないが、期限を切られてしまった。せめて世話になったタルイシさんにだけは事前にお知らせしようと思って手紙を書いた」と。茶を飲みながら暫く談笑の後、私から「Mさん、想い出深いいくつかの野球場に行ってみようか、車に乗ってゆっくり行こうか?」と提案。しかし「行きたいけどくたびれてダメだぁ〜」と残念ながら体力的に無理な状況になっていました。M氏は続けて「入院することも考えたが、出来れば住み慣れた自分の家で死にたいと思って…。幸い家族が同意してくれたのでこうして居られる」と。側らの奥さん「『自宅で』と言うもんで皆で頑張ろうかと。私一人では負担が大きくどうしようもないが、長男の嫁が本当によく頑張って面倒見てくれているので大助かり。孫娘も爺ちゃんの手をさすってやったりして支えてくれている」と。加えて「県立中央病院から紹介して貰った開業医の在宅緩和ケアの先生が何かあると良く来てくれるし、訪問看護師さん、ヘルパーさんにも恵まれたため、こうやって自宅で面倒見出来ている」と。このようにM氏の在宅医療は、これまでの家族との良好な関係の上で、家族の協力・理解と諸制度のサポートを併せて終末期の在宅医療と介護が成り立っていたのです。

 ところでM氏はお婿さんでした。彼の奥さんの両親も在宅で亡くなりました。M氏の義父は脳梗塞で8年間の在宅療養の末84歳で亡くなり、義母は6年間在宅で96歳の老衰で亡くなりました。このお二人を奥さんを中心に家族全員が支えた実績と経験がM氏自身に生かされたとも言えるのではないかと思うのです。このような家庭の状況をしっかり見つめていたM氏の孫娘は、高校で福祉課を選考し、現在は言語聴覚士を目指して勉学中とのことです。

U-100 友人Mさんの死 H 〜「最期は在宅で」も厳しい現実」〜

 このホームページで、2015(平成27)年3月1日と、同年8月1日付で「日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の調査」の中で在宅医療について紹介しました。その中で、「もしあなたががんで余命が1〜2ヶ月に限られるようになったとしたら、自宅で最期を過ごしたいと思いますか」の設問に対して。「『自宅では過ごしたくない』と回答した人は9.8%にとどまり、8割以上が自宅で過ごしたいと考えています。しかし『自宅で過ごしたいが、実現は難しいと思う』と回答した人が63.1%の一方で、『自宅で過ごしたいし、実現可能だと思う』と考えている人は18.3%しかおらず、多くの人は、実際には自宅では過ごせないと感じています。」とのことでした。

 又、2014(平成26)年10月1日付では2011年12月3日付の朝日新聞社のアンケート調査記事「人生の最期は何処で?」を紹介。「自宅で迎えたい人と自宅以外を希望する人がそれぞれ50%という結果」でした。但し、自宅以外を希望する人の理由は「家族に負担をかけたくない」というのが圧倒的でした。そして最後に私の体験として「私が在職していた10年前の実感は、『自宅で死にたい』という患者さんが圧倒的に多く、7〜8割だった感じですが」と付け加えました。

 この様に、多くの方はご自宅で最期を迎えたいと考えるのですが、現実とのギャップに加え、「家族に迷惑をかけたくない」という心理も働いてしまうのです。 M氏の場合は、これ等の大きな課題を乗り越え、在宅医療・看護を選択し実行できたのでした。

U-101 友人Mさんの死 I 〜死亡と葬儀そして弔辞〜

 平成28年11月、M氏は遂に旅立ってしまいました。ご遺族の話では「苦しみもなく穏やかに」とのことでした。何回かベッドサイドにお邪魔して手を握り目を合わせ、私は「貴方のことは決して忘れないから!」と。最後の面会から一週間後のことでした。満74歳。
 直ちに、仲間に連絡すると共に、私は弔辞を読むことにしました。葬儀の祭壇の前で諷誦文(フジュノモン、一般で言う引導文)を読むのは日常的ですが、弔辞の経験は余りありません。僧侶としてではなく、親友として衣(略衣でしたが)を着けた姿で次の弔辞を読み上げました。

U-102 友人Mさんの死 J 〜弔辞〜

弔 辞

 Mさんの御霊前に 心からの弔意をささげるとともに 長いお付き合いに厚くお礼を申し上げます。
 本日ここに立つ私は 僧侶としてではなく かつて勤務した県立中央病院時代からの友人としてのものです。
 私は昭和五十四年から中央病院に勤務しましたが、それ以来四十年に亘ってお付き合いをさせていただきました。病院での職場・職種は異なるものの 私たちにはスポーツ、特に野球部という共通の土俵がありました。
 院内の任意団体として百二十人という巨大組織の中で、貴方はチーフマネージャー、私は監督として部を支え、正に車の両輪として活躍されました。特に貴方は野球部の機関誌・「野球部報」を毎月発行し百人を超える部員をまとめる貴重な役割を果たされました。
 この野球部報は院内全職場・全職種はもとより、院長をはじめとする管理職にも配布され、貴方の几帳面さ、積極性そして何よりも文才によって「院内に野球部あり」を印象づけ、部の存在を否が応でも高めることとなりました。
 このように大きい組織の野球部は、やることも大きく、東京ドームを一時間半借り切るという離れわざまでやってのけました。部員の家族を含め多くの人数でドームの土を踏みました。「このベンチ この椅子に監督の長島が座るんだ、エース槇原が踏むマウンドはこれだ!」等々の感激に浸るとともに、別の機会には屋形船を借り切って隅田川下りを体験、部員・家族一同揚げたての天ぷらとビールに酔いしれました。
 又、日常活動の中でも宴会の開催は日常的、特に年末の宿泊忘年会は院長をはじめとした管理職はもとより、きれいどころの看護師さんが大勢参加し、多彩な踊りやゲームの出し物に、常連となったホテルの従業員さんが楽しみに待っているほどでした。
 Mさん!それもこれもチーフマネージャーとしての貴方が企画し、支えていただいたからこそ出来た壮大なドラマでした。
 中央病院退職後も、野球部の中核メンバーによる新年会を毎年、私の寺で開いてきました。数えて十三回になりますが、貴方は数年前から酸素ボンベを引きながらも一度も欠席することなく、出席されました。今年の正月も容体変化なく出席され、一同喜びの中で宴席を楽しむことが出来ました。しかし七月、貴方から突然の手紙が届きました。ご家族のお許しを頂きましたのでその一部を貴方とともに振り返ります。Mさんいいよネ?!
 その手紙の冒頭に「私ごとで突然お便りする無礼をお許しください。恐らくはこれが最初で最後のことかもしれません」とあり、病気の状態が良くないことの説明に続いて「垂石さんには生きている今、お礼を言わねばと思い筆を執った次第です。今思えば、病院勤務中、何か困ったことがあるとすぐそばにいつもタルイシさんがいてくれたような気がします。私の人生でこの上なく輝いた歳月を遅らせて貰いました。本当に有り難うございました。今思います。私の人生恵まれたものであった」と。実に淡々とした心からの綴りがあったのです。
 びっくり仰天、すぐご自宅を訪問、貴方は心から喜んでくれました。そして「自分にいつXディが来るか分からないが、自宅で静かに死にたい、病院で死ぬのはいやだ。慣れ親しんだ我が家がいい」と。
 そうですね。誰しも死は自宅で迎えたいものですネ。私たちが在職中も入院中のほぼ八割の患者さんは「自宅で死にたい」との思いを持っていました。しかし現実はなかなか困難なのが実情です。家族の二十四時間看護と介護。これを考えたときに「家族に迷惑をかけられない」との結論になってしまうことがたくさんありました。このような中で貴方はご家族に見守られながら希望通りご自宅で死を迎えることが出来ました。奥様はもとより、息子夫婦そして孫たちも貴方を支えると共に、家族同士支え合って看護と介護の限りを十二分に果たされました。Mさん!貴方は何という恵まれた幸せな方ですか!
 亡くなる数日前に伺った時、私の手を握りながら「タルイシさん又あえて良かった!」との喜びの後、「家族に恵まれて、いまこうしておれる。有り難う有り難うです」との感謝の言葉。正に極楽浄土の境地から出た言葉でした。
 Mさん、今日のお別れに当時の野球部中核メンバー、そして新年会メンバーも顔を揃えています。これまでのご活躍とご厚誼に深く感謝するとともにMさんという存在を決して忘れることなく、胸に刻みおくことをお約束し弔辞といたします。

平成二十八年十一月○○日
長く大変お世話になった友人を代表して

圓應寺住職 埀石啓芳

 葬儀が終わり、仲間達の中には「弔辞を聞きながら思いだして涙してしまった」との友も。そうなのです、Mさんはしっかり私達の胸の中にいる人なのです。

U-103 友人Mさんの死 K 〜その後〜

 葬儀が終わって暫くして、ご遺族が来寺され、「本人の遺言で、来年の新年会の酒の足しにして頂きたい。皆様にくれぐれも宜しく!」としてお金を頂きました。翌年の新年会では、仲間達に報告すると共に、ご冥福を祈って皆でお参りとご焼香。その後、Mさんを偲びながらの宴席となりました。
 春には、「Mの長男です。大変お世話になりました!」と息子が来寺。当寺は最上三十三観音霊場の第四番札所となっており、長男は冥福を祈って初めての最上巡礼で来寺したとのことでした。家族の中に、M氏が息づいているのを垣間見た感じでした。
 そして、昨年11月には一周忌の仏壇参りに伺いました。奥様は、「自分たちに出来るだけのことはやり遂げた」というある種の満足感のような感慨をお持ちのように私には感じ取れました。そうです!奥様を中心にご家族の皆さんが精一杯の看護と介護をやり遂げたのです。
 年が明けて、2018(平成30)年1月に奥様を訪ねました。これまでのM氏との付き合い、在宅死の実際等についてホームページに掲載することのお許しを頂きに行ったのです。M氏は生前、私のHPを見て「特に緩和ケア医療関係が参考になり、緩和医療科に受診することになった」と言って居られました。
 このことは奥さんもよくご存知で、「Mも喜んでくれるはず」と言って快諾して頂きました。
 先月(2018年11月)、M氏の三回忌の当日にご自宅を訪問、仏壇でお参り読経をさせていただきました。奥さんは「早いネ〜、あっという間の2年」と述懐。改めてご冥福をお祈りし「南無大師遍上金剛」。

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