住職法話

住職法話 「いかに生き、いかに死ぬか」

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56回

(平成27年11月1日)
X.仏教に見る祈りと教え

 前回のこの項では、真言宗の開祖である弘法大師・空海の、唐の国・長安(西安)にたどり着いたことを私の訪問記も含めて述べました。今回は密教の大家・恵果和尚からの密教伝授と再度の私の訪問記も含め、振り返ります。

X-56 青龍寺の恵果和尚に師事 


平成10(1998)年 参拝祈念として求めた恵果和尚と弘法大師像

 空海は当時の密教の大家で青龍寺の恵果和尚に師事したのですが、恵果和尚は「貴方が来ることを心待ちにしていた」と迎入れ、空海の訪問を大歓迎したと言われています。当時恵果和尚には、1,000人程の弟子が居たと言われていますが、異国からやって来た空海に「自分の持っている全てを伝授する」として密教の極意を伝え、密教の継承者として空海を指名したのでした。そして「私はあなたに密教の全てを伝えた。早く日本に帰ってこれを広め、人々のために尽くしなさい」と早期の帰国を促すと共に、「固い決意を以てこの世の一切を遍く照らす」という意味を込め、「遍照金剛」の名称を与えたのです。この名称は、今日でも弘法大師の尊称・ご宝号として「南無大師遍照金剛」としてお唱えしています。

X-57 早期に帰国 

青龍寺境内 平成10年平成10(1998)年 青龍寺境内

 恵果和尚は、空海に全ての伝授を終え、経典・仏具等の宝物を託した僅か3ヶ月後の永貞元年(805)年12月、60歳にて入滅されたのです。空海は翌年の元和元年(806年)、長安を出発しました。時に空海31歳から33歳までの足かけ3年の滞在でした。特に恵果和尚からの伝授は僅か3ヶ月(6ヶ月という説も)という短い期間でした。
 それにしても空海は何処でどの時期に中国語を勉強したのでしょうか。短期間に全てを学ぶためにはかなりの語学力を要したはずなのですが‥‥。又、インド伝来の仏教経典を理解するためには「サンスクリット語」が必要でしたが、これについては長安に滞在中に学んだと言われています。正に天才的な頭脳の持ち主だったのです。

X-58 直ぐの入京が許されず

平成10年時の青龍寺平成10(1998)年時の青龍寺

 空海は、各地を巡って806年8月唐の国を出航。往路同様、再度の嵐に遭遇も、現・長崎県五島列島に到着、帰国したのです。しかし先にも述べましたように、空海は20年の留学僧として海を渡ったものの足かけ3年で帰国したため、直ぐの入京が許されず、数年間大宰府に滞在せざるをえませんでした。恵果和尚から「密教の全てを伝えた。早く日本に帰ってこれを広め、人々のために尽くしなさい」と託された空海は、相当の焦りを感じたのではないでしょうか。

X-59 2回目の青龍寺参拝

青龍寺住職・寛旭師と 平成十八年平成18(2006)年 青龍寺住職・寛旭師と 

 私の、青龍寺への2回目の参拝は8年後の2006(平成18)年9月3日でした。
この時は前回の経験もあり、事前に参拝の連絡をしておりましたので、住職の寛旭(かんぎょく)師に迎えていただきました。たった一人の拙僧に時間を割いていただき大変恐縮してしまいました。
 写真は、恵果空海祈念堂前での記念撮影をお願いし、快く引き受けていただいたものです。私より結構若い住職ですが、実に落ち着きのあるお方でした。

X-60 大壇での修法に感激

大壇での修法

 青龍寺住職・寛旭師のお許しを得て、大壇に上り修法をさせて頂きました。以前の堂内は薄暗闇の状態でしたが、明るい光の中でお参りさせて頂きました。「あぁ、ここでお大師様が恵果和尚から‥‥」と感激の一時でした。
 ところで現在の青龍寺住職寛旭師は、度々来日し、弘法大師ゆかりの地を参拝しているのです。私が青龍寺を2回目に参拝した半年前の2006(平成18)年4月、空海が九州へ帰国して1200年になるのを記念して真言宗の寺院でつくる「九州八十八ケ所霊場」を巡拝し、世界平和を祈願しました。
 又、寛旭師は2011(平成23)年1月、空海が開いた高野山金剛峯寺を参拝、5回目の参拝でしたが冬は初めてとのこと。師は「来る度に空海の偉大さを感じる。彼は短期間で唐代の密教を学びとった。書や道教、土木技術にも通じた天才だ」と。更に今年(2015年)は高野山開創1200年記念の年で、大法要が厳修され、この法要にも寛旭師は参加されたのです。そしてその折に当・圓應寺の本山、智積院にも参拝されたことを後日伺いました。日中の仏教交流を身を以て示していただいているのです。

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