いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第159回

有限の人生そして死を意識して
【「いのち」の考察】175~179

「「在宅ひとり人死」の考え方 2」

 前回のこの項で、東京大学名誉教授・上野千鶴子氏の「在宅ひとり人死」の考え方を取り上げました。今回は、その後半として先生の考え方に私なりに検証してみたいと思います。

 尚、前回もお断りしましたが、上野千鶴子先生については、2020年5月のこのホームページで、2019年東京大学学部入学式での氏の祝辞(社会的不公正と男女差別、歴史と生育環境等について鋭い問題提起をしたことによって話題)を紹介すると共に、氏の考えに私自身共鳴したことを掲載しました。このように先生の考えには大変賛同し尊敬している私です。

Ⅲ-175 先生の考えに、私は‥‥①

 近年、「孤独死」につてはよく報道され、先生が指摘するように社会問題として捉えられるようになりました。それは「孤独死」件数の多さと、超高齢社会にあって人々が「いつかは自分も」との関心と恐れがあるからと思われます。2020年11月27日一般社団法人日本少額短期保険協会孤独死対策委員会の発表による2015年4月~2020年3月までの協会定めの「孤独死」は、男性3,698人(83.1%)、女性750人(16.9%)ということです。人数の多さに驚きます。ただし、この人数は、対象が保険に加入している人であることから全国の実際の人数はもっと多くなります。又、男性比率の圧倒的高さにも驚かされますが、この傾向は先に示した、「満足のいく老後の三条件」の中の「②金持ちより人持ち」に関係するのではないでしょうか。

 (追)5月14日朝日新聞に、「65歳以上『孤独死』年6.8万人」と題した記事が載りました。それによると5月13日の国会答弁(警察庁)で、今年1~3月の一人暮らしの遺体のうち、65歳以上の高齢者は17,034人とのことです。この人数を「単純に年間ベースに置き換えると、65歳以上の死者数は約6万8千人と推計される」とのことです。改めて孤独・孤立死者数の多さに驚かされます。

Ⅲ-176 先生の考えに、私は‥‥②

 さて、先生の「在宅ひとり死のススメ」の推奨と問題提起には少なからず驚きを覚えました。しかし私は、大変失礼ながら全面的に賛成・共鳴には至りません。私の能力、理解不足なのかも知れませんが、今の私の到達点です。以下、その内容について述べます。

. 今のところの自分は、完全な健康体ではないものの、日常の住職としての法務、生活には支障がないまずまずの心身状態にありますが、私にとっての最大の問題は、正に高齢者として、いつ病に冒されてもおかしくないことです。その病は、日時と共に増大するはずです。体に自信がなくなることは、精神的弱さをもともないます。そのような時期になって、はたして先生の主張する「在宅ひとり死」の心境になれるのでしょうか。私は自信がないのです。昔から「ひとは一人では死ねない」と言われています。これは死後のことを含めた言葉ですが、いまの私には「在宅ひとり死」に自信が持てません。先生は「在宅ひとり死」が絶対ではなく、「ススメ」ですので、私のような者がいても良いのかも知れませんが‥‥。

. 私達が経験した新型コロナ禍の猛威の時期にあっては、病院や施設は厳重注意の中にありました。その一つに厳しい面会制限があります。日にちが経てば退院、退所出来るような場合(Ⅱ緩和ケア医療に学ぶ生と死【生と死の考察】2021年6月1日付で掲載した私の入院のような場合)は別として、終末期にあるような方が、家族に会えないというストレスは想像を絶するものがあります。家族も同様です。病院や施設でコロナ禍の時期に亡くなった檀信徒の方が何人かおられますが、お気の毒としか言いようがありません。一方で一部の方は、「会えないんだったら退院(退所)して自宅で」と意を決した方もおられます。何とか条件が整い、自宅で亡くなった方はご遺族も(ご本人も)、自宅に帰って良かったことを心の叫びのようにして話をしてくれます。このような時期にあっては殊の外、自宅での死が「良かった!」となります。しかしこれらの方々は全て、一人で亡くなったのではなく、家族の中で亡くなった方々なのです。先生はひとり身の場合でも入院や施設死ではなく、在宅をススメるということで、家族がいる場合とは異なりますが、コロナ禍の時期には、特に在宅の有り難さが際立ったのでした。

Ⅲ-177 先生の考えに、私は‥‥③

. コロナ禍の最中で、施設入所中に亡くなられた檀家さんの例です。コロナ危機が始まった当初は、全く面会不可能の事態になりました。施設内感染は入所者、職員を問わず、一人感染者が出た場合は施設運営そのものが立ちゆかなくなってしまうからです。長くこのような事態が続きましたが、次第にガラス越しの面会が出来るようになり、ご本人はもとよりご家族も喜んだものでした。ところが、以前にも触れたようにガラス越しでは本当の面会にはならないのです。それも多くは15分間以内の顔合わせであり、声はマイク・スピーカーを通してなのです。顔をさすり手をさすりながら互いに声を交わすことこそが面会なのです。このような厳しい制約下でお亡くなりになった方の遺族にとって、「死んだ○○に最期は何もしてやれなかった」との大きな悔やみが残ってしまいました。ましてやご本人はどんなに寂しい想いで亡くなったのでしょうか。「施設内孤独死」なのかもしれません。この孤独死とも言える死を考えますと、ご本人と遺族の双方に孤独死に対する強烈な負の想いが間違いなくあったのです。だからこそ何とか事情がゆるすケースにあっては自宅に引き取り、遺族が世話をしながらの「在宅死」を選択したのでした。やはり私は家族を中心とした人の中で死を迎えたいと思うのです。

Ⅲ-178 先生の考えに、私は‥‥④

. 最近、妻との間で考えさせられた出来事がありました。風呂から上がった妻が「左肩甲骨あたりが・・・」と訴え、パテックスを貼って就寝したのです。ところが真夜中に大きい声で叫ぶ妻に起こされたのです。尋常でない叫びに先ずは驚いたのですが、付けた電気に浮かんだ妻の表情にはなおのこと驚いたのでした。ベット上で顔は苦痛にゆがみ「痛いいたい!痛いいたい!」の連発なのです。状況を掴もうと必死で尋ねるとパテックスを貼った周辺の「激痛で、起きるどころか寝返りも出来ない」というのです。もしやと思い直ぐ脈拍、血圧を測りましたが特に異常は無いのです。しかし激痛は続きます。真夜中、どうしたもんだとの迷いの中で、24時間サービスの電話救急相談があることを思い起こし、即電話した結果「やはり救急車を呼んだ方が良い」と。これを受け、直ぐに119番と思ったのですが、その前に外来又は入院の当面の準備作業に短時間でしたが取りかかりました。妻にも靴下や羽織るものなどを準備したのです。ところがその準備をしている中で少しですが、妻の動きが滑らかになって来たのです。「痛み軽くなった?」に「少しだけ軽くなったような・・・」と。と言うことで急遽119番を中止し、翌朝の定時に受診することにしたのでした。

Ⅲ-179 先生の考えに、私は‥‥⑤「やはり私は」

 このような激しい痛みにより、妻は精神的にも大打撃でした。元来、妻は痛みには非常に強く、ガマンしきってしまうタイプなのです。その妻がアノ痛がりようでしたので並大抵のものではなかったのです。結果的に私は何もしてあげられませんでしたが、側に居たことが一番の私が果たしたことなのではなかったかと思うのです。在宅一人で妻のような事態を迎えた場合はどうなるのでしょうか。激痛の中で顔をゆがめながら亡くなってしまうのでしょうか。後日、妻はいみじくも「あんな痛みの中で一人で死ぬのだけはイヤだ」と語ったのでした。

 一人暮らしの上野先生に良い方法があるかどうかよく分かりませんが、私はやはり痛みを訴えることが出来る人が側にいてくれることを望むのです。