いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第131回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

147-151

「日本の仏教宗派の歴史について 2」

この項の前回は、日本の仏教宗派の歴史について「平安仏教」まで述べましたが、今回はその続き(2回目)です。

Ⅴ-147 宗派の歴史⑤ ~鎌倉仏教 ⅰ~

(宗派のイラストより許可を得て使用 転載不可 以下同じ)

 鎌倉時代には多くの宗派が生まれました。平安末から鎌倉時代にかけては貴族から武士社会へと移る転換期であり、天災・飢饉などによって民衆の苦悩が深まった時代でした。それは世の末を意味する「末法の時代」でもありました。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代り、一般大衆に対応した仏教が生まれました。

●浄土宗

 浄土宗系の宗団で宗祖とされている法然(1133~1212)は初め比叡山に上り、次に南都に遊学し、諸宗の奥義を究めたが満足できず、中国の善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』に触発されて、専修念仏(ただひたすら念仏だけを唱えること)を唱える浄土宗を開創しました。すなわち、この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土にひきとっていただき、そこでやがて悟りを開く方がふさわしいと、専ら念仏を修する立場を選択したのです。この念仏は、愚人、悪人こそが救われる道として、当時の民衆に大きな影響を与え、法然のまわりには貴族をはじめ多くの人々が集まったと言われています。しかし、従来の諸宗は伝統的な仏教を否定するものとして反発し、朝廷に念仏停止(ちょうじ)の令を発するように働きかけたのです。結局、法然は流罪に処せられ、高弟らも死罪や流罪に処せられたのでした。

 現在の浄土宗は、法然の高弟のうち、特に九州地方で活躍した弁長(1162~1238)の鎮西流を中心とする宗派です。総本山は法然が半生を過ごし、最期を迎えた「知恩院」です。

Ⅴ-148 宗派の歴史⑥ ~鎌倉仏教 ⅱ~

(転載不可)

●浄土真宗

 浄土真宗の宗祖は親鸞(1173~1262)です。親鸞は初め比叡山で修行に励んだのですが、29歳で法然の下に参じたと言われています。やがて法然の高弟の一人となり、法然が四国流罪にされた時は越後流罪に処せられました。その後、関東で教えを弘め、晩年には京都に帰ったのですが、関東の門弟をも指導し続けたと言われています。親鸞は、法然の唱導した念仏の教えこそ真実の教え(=浄土真宗)であると考えていました。一方で親鸞は信心に徹底することによって、この世で救いが成就するとしたのです。尚、親鸞は妻帯も仏道を妨げないことを唱え、非僧非俗と称して出家教団とは異なる教団を形成しました。

 現在、真宗宗団で最も大きいのは、浄土真宗本願寺派(西)、真宗大谷派(東)の東西本願寺宗団でです。本願寺は元来、親鸞の廟堂であり、親鸞の子孫が管理しました。三代覚如(1270~1351)の時、本願寺となり、第8代の蓮如(1415~1499)は活発に布教活動を展開し、今日の大教団の基礎を築きました。なお、東本願寺は、徳川家康が当時現職を離れていた教如(光寿)に施与したもので、それ以前からあった本願寺を西として、東西両本願寺が並び立つこととなったのです。

Ⅴ-149 宗派の歴史⑦ ~鎌倉仏教 ⅲ~

(転載不可)

 そのほか浄土系の宗派の代表的なものとして融通念仏宗と時宗の二宗があります。

●融通念仏宗

 融通念仏宗は平安時代の良忍(1072~1132)が開祖です(鎌倉仏教の項目に記載しましたが、浄土系としてここにまとめました)。良忍ははじめ天台宗を修めましたが、比叡山を下り、46歳のときに阿弥陀如来より「自他融通の念仏」を受け、融通念仏宗を開きました。自他の念仏が相互に力を及ぼしあって浄土に往生すると説いています。良忍はまた、天台声明の中興の祖としても有名であり、総本山は大阪市にある大念佛寺です。

Ⅴ-150 宗派の歴史⑧ ~鎌倉仏教 ⅳ~

涅槃 摩耶夫人(転載不可)

 浄土系の宗派の代表的宗派の二つ目は時宗です。

●時宗

 時宗の開祖は一遍(1239~1289)です。一遍は証空門下の聖達に学び、後に熊野本宮で神勅(シンチョク=神のお告げ)を得るなどして自らの教学を形成しました。一遍は捨聖(すてひじり)といわれ、遊行(ゆぎょう)、門弟も一遍に従って諸国を遊行した。また念仏を称えた人には算(さん)という念仏の札を与えました(=賦算・お札くばり)。その宗団は、初め、時衆と呼ばれ、室町時代にかけて大きく成長したと言われています。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺(遊行寺)です。

Ⅴ-151 宗派の歴史⑨ ~鎌倉仏教 ⅴ~

(転載不可)

鎌倉時代に成立した禅宗に、臨済宗と黄檗宗さらに曹洞宗があります。

●臨済宗

 臨済宗は中国で成立した禅の一派で、日本には栄西(1141~1215)が宋より伝えました。ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明なんぽじょうみょう)、大燈国師(宗峰妙超しゅうほうみょうちょう)、関山慧玄といういわゆる応・燈・関(オウ・トウ・カン)の流れです。さらに江戸時代には白隠(はくいん)(1685~1768)が出て、これを中興しました。

 禅とは精神統一の状態を意味する禅那(ぜんな)の語に由来します。すなわち、坐禅を組んで精神統一し、自己の本性を見通し、悟りを開くことを目的としています。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられます(不立文字ふりゅうもんじ、教外別伝きょうげべつでん)。又、古来、禅僧にはその悟りの立場から発する奇抜な言動が禅問答として遺されていますが、それらは後に禅の学人にとって自らの修行を深めるよすがとして活かされるようになりました。これを公案(こうあん)と言い。白隠禅は公案による禅修行を主体としています。

 臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派でです。妙心寺の開山は関山慧玄(カンザンエゲン)(1277~1360)で、室町時代に雪江宗深(セッコウソウシン)によって全国的な広がりをもつ一派となりました。その他、主な大本山とその開山は、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門(1212~1291)、天龍寺は夢窓疎石(1275~1351)、大徳寺は宗峰妙超(大燈国師)(1282~1337)、建長寺は蘭渓道隆(宋1213~1278)、円覚寺は無学祖元(宋1226~1286)、また、相国寺は夢窓疎石を開山、春屋妙葩(みょうは)(1311~1388)を二世とし、各本山ごとに宗派を形成しています。

●黄檗宗と曹洞宗、その他の宗についてはこの項の次回に述べます。