いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第129回

有限の人生そして死を意識して
【「いのち」の考察】140-145

「野球評論家・野村克也氏の活躍と野球を通したものの考え方、生き方」

 前回は、「終活」と最近話題の「人生会議」の必要性について述べました。今回は4月に亡くなった立花隆氏の印象に残った言葉に触れた後、2020年2月11日、84才で亡くなられた野球評論家・野村克也氏の活躍と野球を通したものの考え方、生き方(哲学かな?)について2回に亘って述べます。今回はその前半です。

Ⅲ-140 立花隆氏の言葉

圓應寺ご本尊 地蔵菩薩

 今年(2021年)4月30日、「知の巨人」と言われたジャーナリスト、ノンフィクション作家そして評論家でもあった立花隆氏が80歳で亡くなっていたことが後日判明しました。立花氏はご案内のように「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表、田中角栄首相失脚のきっかけを作りました。立花氏はその他、幅広いテーマを取り上げ「知の巨人」とまで呼ばれる存在でした。氏の死亡後、様々な形で追悼記事や番組を見目にしましたが、私が最も印象深かったのは、2014年NHKスペシャル『臨死体験』の中で、立花さんが多くの臨死体験者を取材して語ったとされる次の言葉です。

 「私が印象深かったことは、体験者たちがこの(臨死)体験を語る時、そこに恐ろしいものがあったと語る人は1人もいなく、むしろそれはすばらしい体験であった、あるいは、この体験のあと死を恐れることがなくなったとすら語っていることです。この取材のあと、私は自分自身の死というものを直接、正面から考えることができるようになりました。私たちはどうしても死というものをタブー視して、正面から向き直って考えようとはしません。しかしそのタブー視する考えこそが死を特別な、巨大な、忌まわしいものにしようとしてしまっているのではないでしょうか。このような臨死体験の研究を通じて私たちがもっと直接、深く、死を見つめなおすことができるのではないかという気がしました」

 私自身のテーマ「いかに生き いかに死ぬか」にとって立花氏のこの言葉は、実に意味深く、心にとまったものでした。  合掌

Ⅲ-141 野村克也氏 ~はじめに~

 野村さんは現役時代には戦後初の三冠王、本塁打王連続8年という大打者でもありましたが、むしろ監督として指導者になってからの印象が強烈に残ります。正にものの考え方、生き方と共に、常識を覆す視点で多くの選手の隠された力を引き出してきました。「正に固定観念は悪、先入観は罪。自分の中には自分の知らない自分がある」として当時の名外野手(2021年10月、日本ハムの新監督に就任し、マスコミを賑わしている)今話題の新庄剛志選手にピッチャーの練習をさせ、バッターを牛耳る自信を持たせようとしたり、キャッチャーの飯田選手を一流の外野手に育て上げるなどしたほか、他球団を自由契約になった選手を採用して見事に再生させ、「野村再生工場」などと言われたほどでした。氏の考え方と生き方は、野球を通して私たちに多くのことを学ばせてくれました。したがって野球界にとどまらず多くのファンが氏のご逝去を惜しみご冥福を祈りました。私自身もその一人です。

 野村さんの死は、多くのマスコミが大々的に報じましたが、それだけに止まらず、氏の一生を振り返ると共にその教えについての特集を組んで報じられました。それらの報道を参考に私なりにまとめてみることにしました。

Ⅲ-142 野村さんの生涯

開聞岳を望む

 野村さんは昭和10年、現在の京都府京丹後市で生まれました。しかし3才時に父親が戦死、「父の顔を知らないで育った。母親の苦労ばかり見て来た」と述懐しています。経済的に大変苦しい中、新聞配達などでなんとか高校に入学し、好きな野球を続けることが出来たということです。高校卒業後テスト生として元のプロ野球南海球団に契約金なしで入ったのですが、一年で契約解除の宣告を受けてしまいました。しかし「無給で良いから!」「だめなら南海電鉄に飛び込んで自殺します」と懇願してなんとか首がつながったというのです。氏のプロ野球経歴は、南海(現・ソフトバンク、後半監督兼任)→ロッテ(選手専任)→西部→1980年、実働26年、45歳で現役を引退。その後野球解説者→1989年ヤクルト監督→1998年退団、同年阪神の監督に→2001年退団→2002年社会人野球のシダックスの監督兼ゼネラルマネージャーに→2005年シダックス監督を退任→同年、楽天の監督に就任→2009年退団→解説者にという変遷でした。

Ⅲ-143 野村さんの成績① 選手として

 1965年戦後初の三冠王(史上2人目で、世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、、通算本塁打657本で歴代2位、通算2901安打で歴代2位、通算1988打点で歴代2位、ベストナイン19回受賞で1位など。8年連続で9回の本塁打王、特に1963年の52本塁打は、落合博満と並んで日本出身の日本国籍選手としてシーズン最多本塁打記録でした(尚、一位はヤクルトのバレンティン60本 二位は巨人王貞治55本 近鉄ローズ55本 西武カブレラ55本 五位は阪神バース54本)。このように大打者の「生涯一捕手」として活躍したのでした。

Ⅲ-144 野村さんの成績② 監督として

 南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を23シーズに亘って歴任、南海で一度の優勝を果たしましたが、特筆は「弱小球団」と言われていたヤクルトを「ID野球」を駆使してリーグ優勝4回、日本一3回に導きました。監督としての出場試合数も歴代3位という大記録でした。

 さらに野村氏は、監督としての勝敗の他に、伸び悩む選手を一流の選手として再生させる指導力を発揮したことでも名をはせました。先に述べた「野村再生工場」です。ヤクルト時代に広島から移籍した小早川毅彦選手が、3年連続開幕戦完封勝利の巨人・斎藤雅樹投手から3打席連続本塁打を放つなど、リーグ優勝、日本一に貢献したのはあまりにも有名です。この他にも多くの他球団で戦力外となった選手、トレードで移籍してきた選手を再生させたのでした。正に起用法を変え考え方を変え活躍の場を与えることから命名された「野村再生工場」でした。

Ⅲ-145 野球解説者時代

 野村氏はテレビ、ラジオ、スポーツ紙、週刊誌などで長年解説を務めました。テレビ朝日解説者時代、現在でもテレビ放送で使われているストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」を登場させ、配球とその読み、打者・投手心理の解説が評判になりました。この9分割スコープは野村氏が初めて登場させたもので、「生涯一捕手」の力量が遺憾なく発揮された読みと心理の解説でした。