圓應寺 住職法話
住職法話 第126回
仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】
142~146
「日本の仏教宗派の歴史について 1」
この項の前回は、仏教の歴史と基本に立ち返り、「顕教」と「密教」、特に密教について述べた後、山形での声明コンサートについて急遽「臨時添付」すると共に、圓應寺観音祭礼と最上三十三観音連合ご開帳について述べました。今回から日本の仏教宗派の歴史についての概略を3回に亘って述べ、今回はその1回目です。尚、この項では度々申しあげておりますが、今回の日本仏教史と各宗派については、専門書が沢山出ております。詳細はそれらをご覧下さい。
Ⅴ- 142 宗派の起源と流れ ~日本の代表的な13派~
日本仏教の代表的13派の起源と流れは図に示した通りですが、項目別に整理すると次のようになります。
系 統 | 宗派名 | 開祖・別名 | 生年-没年 |
---|---|---|---|
奈良仏教系 | 法 相 宗 | 道昭(どうしょう) | 629-700 |
律 宗 | 鑑真(がんじん) | 688-763 | |
華 厳 宗 | 審祥(しんじょう) | ? | |
密教系 | 真 言 宗 | 空海 弘法大師 | 774-835 |
密教・法華系 | 天 台 宗 | 最澄 伝教大師 | 767-822 |
法華系 | 日 蓮 宗 | 日蓮 立正大師 | 1222-1282 |
浄土系 | 浄 土 宗 | 源空 円光大師 | 1133-1212 |
浄 土 真 宗 | 親鸞 見真大師 | 1173-1262 | |
融通念仏宗 | 良忍 聖應大師 | 1072-1132 | |
時 宗 | 智真 証誠大師 | 1239-1289 | |
禅 系 | 臨 済 宗 | 栄西 千光法師 | 1141-1215 |
曹 洞 宗 | 道元 承陽大師 | 1200-1253 | |
黄 檗 宗 | 隠元 真空大師 | 1592-1673 |
Ⅴ-143 宗派の歴史① ~聖徳太子と仏教~
日本の仏教は、聖徳太子(574~622)によってその基礎が整えられたと言われています。太子は、仏教思想を非常に深く受容し、これを治世にも活かしたとも言われています。太子はまた、法隆寺や四天王寺などを建立しています。
その法隆寺は、その後、長く法相宗の学問道場としての役割を果たしてきましたが、昭和25(1950)年、法相宗から独立して「聖徳宗」となりました。又、四天王寺は戦前まで天台宗に属していいましたが、戦後独立しして「和宗」となりました。
Ⅴ-144 宗派の歴史② ~奈良仏教~
奈良時代に入ると、遣唐使によって唐から輸入された学問仏教が、奈良の諸大寺院で学ばれるようになりました。これらは南都六宗といわれ、三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の6宗を言います。このうち法相宗とは、インドに由来する唯識教学を研究する学派で、今日、興福寺と薬師寺を二大本山とし、その伝統を伝えています。華厳宗は、東大寺を大本山として華厳教学を研究する学派です。東大寺には、752年、華厳経の教主・毘盧遮那(びるしゃな)仏・大仏が建立され、東大寺を総国分寺とする国分寺の組織も整備されました。
又、754年、唐から鑑真(688~763)が来日し、授戒の制度を確立。鑑真の開創した寺院が唐招提寺で、今に律宗を伝えています。
総じて、奈良仏教は、鎮護国家的性格を有していたのです。
Ⅴ-145 宗派の歴史③ ~平安仏教 ⅰ~
平安仏教を代表する宗派は天台宗と真言宗です。
●天台宗
天台宗の開祖は、伝教大師・最澄(767~822)です。最澄は天台教学を究め、さらに密教と禅と律の伝授も受けて帰国し、806年、円(天台教学)・密・禅・戒・の四宗を綜合する天台法華宗を開創しました。このように天台宗は元々密教を含んでいたのでしたが、その後真言宗の影響を受けたり、円仁(794~864)、円珍(814~891)が出てさらに密教化し、真言宗の東密に対し台密と呼ばれるようにもなりました。
Ⅴ-146 宗派の歴史④ ~平安仏教 ⅱ~
●真言宗
真言宗の開祖は弘法大師・空海(774~835)です。空海は唐で恵果和尚より真言密教を学び、全ての秘法を伝授されて帰国し、真言宗を開きました。823年には、嵯峨天皇から東寺を賜って皇城鎮護(天皇の御所を護る)の道場とし、835年高野山で入定(入寂)しました。この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力しました。「密教」は、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対仏)である大日如来が、直接説いた教えを言います。生きとし生けるものは、宇宙の根源的な生命である大日如来の顕現であり、我々も身・口・意の三密行(「身密・・・手に仏様の印」を組み、「口密・・・口で真言」を唱え、「意密・・・意〈こころ〉で本尊様」を観想する)の実践により即身成仏(この身このままで仏になること)することができると説きます。その他阿字観などがあり、また諸尊の加護を求めて加持祈祷を行います。
真言宗の寺院に良く掲示されている曼茶羅は、密教の悟りの世界=宇宙の大生命を象徴的に絵画で示したもので、かつ現実世界がそのまま理想世界であることを示すものです。又、高野山は弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となりました。この高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団です。尚、真言宗は皇室と緑が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成しています。
12世紀には、覚鑁(かくばん・興教大師、1095~1143)が出て密教と高野山の復興につとめました。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座主を兼任しましたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(和歌山県)に本拠を構えました。その後、頼瑜僧正(らいゆ 1226~1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立したのです。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化(のうけ)は、それぞれ奈良長谷寺、京都智積院(ちしゃくいん)に移り、現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基となりました。
●修験道(代表的13の宗派ではありませんが)
平安末には日本古来の山岳信仰が仏教、道教、神道などと融合して、修験道という一つの宗教体系を作り上げました。中世期、大峰山では、吉野・熊野を拠点として修行が行われ、熊野側では聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成されました。江戸時代には両派が認められていましたが、明治政府により神仏分離政策がとられ、明治5年、修験道は一宗としては廃止され、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなったのです。現在は独立して本山修験宗、真言宗醍醐派、金峰山修験本宗などとなっています。