いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第116回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

126-131

「「大乗仏教」と「上座部仏教」について」

 この項では5回に亘って、お大師さまの名言を紹介しましたが、今回からはこの項の初期同様、仏教の歴史と基本に立ち返りたいと思います。そのはじめとして仏教の誕生に触れた後、「大乗仏教」と「上座部仏教」について述べます。

 尚、前回までのお大師様の名言のところでも述べましたが、この項についても専門家による書籍などがたくさん出ていますので、詳細はそちらを確認頂くようにお願いいたします。

Ⅴ-126 仏教の誕生

釈迦が悟りを開いた聖地インド・ブッダガヤ

 仏教の誕生については、この項の第11回(平成24年2月1日)をはじめとして、大凡次のように述べました。

  1. お釈迦さまの誕生
    「仏教」を開いたお釈迦さまは、約2500年前の紀元前4~5世紀頃、現在のインドとネパール付近の「シャカ族」の王子として生まれ、名前は「ゴータマ・シッダールタ」と。
  2. そのシッダールタは、29歳で出家。修行に入るためお城の東門から出ようとすると、そこには年老いた老人の姿、南門には病気で苦しむ姿、西門には死者の姿が、最後に北門から出た前には、修行者の姿があり、意を決して城を後にしたと言われていること。
  3. 5人の仲間と一緒に、シッダールタも修行者(出家者)として6年間に亘って荒行を続けたももの、35歳になったシッダールタは、荒行から悟りは得られないことに気付き、心身共に限界の状態で、修行地のスジャータ村を出る決意。5人の仲間は修行の「脱落者」として軽蔑したと言われたこと。
  4. シッダールタはブッダガヤの地に入り、菩提樹の下で、深い瞑想に入り、49日目の12月8日早朝、遂に悟りを開きシッダールタは修行者から仏陀となったこと。

Ⅴ-127 上座部仏教と大乗仏教 ①

この山に釈迦が苦行したとされるスジャータ村がある

 2500年ほど前のお釈迦様の時代には、既に文字があったということですが、悟りを開いたお釈迦様は、その教えを文字として遺すことはありませんでした。教えを請う人々の能力、水準等々の相手に応じた内容で説法したからなのかも知れません。お釈迦様が入滅して100年ほどまでの仏教を原始仏教(又は、根本仏教)と言います。この間、お釈迦様の教えを確認するため多くの弟子が集まって会議(結集ケツジュウ)が持たれました。確認の根幹は、①「経」(お釈迦様の教え)、②「律」(出家した人が守らなければならない戒律)、③「論」(「経」と「律」を注釈・解説したもの)の三本柱てした。そしてこの三本柱を「三蔵」と言います。

Ⅴ-128 上座部仏教と大乗仏教 ② ~「三蔵法師」と「玄奘三蔵法師」~

玄奘三蔵法師

 ちなみにあの有名な西遊記に出てくる「三蔵法師」という呼称は、この三蔵をよく理解した高僧という意味なのです。従って「三蔵法師」は一人だけではありません。よく理解した高僧は他にもいるため、西遊記に出てくる高僧の正式呼び名は「玄奘三蔵法師」です。この玄奘三蔵については、仏教の日本伝来との関係でこの項の第31回、2013年10月01日付「玄奘三蔵のシルクロード 前半」と第36回、2014年03月01付「玄奘三蔵のシルクロード 後半」で詳しく述べておりますので参照ください。

Ⅴ-129 「上座部仏教」と「大乗仏教」 ③

シッダールタはこの木の下で乳がゆを頂き元気に

 さて、お釈迦様が入滅して100年ほどが過ぎた頃には、お釈迦様の教えを巡って解釈の違いが出てくるようになったようです。その解釈を巡って20ほどの部派が誕生したと言われており、この時期は部派仏教と呼ばれています。そして時代が経過し、この部派の中に二つの大きな流れが出てくるようになりました。

 その一つはかつて「小乗仏教」と言われていた「上座部仏教」です。「上座部」は長老派という意味を持つもので、出家した僧侶が中心の仏教としてお釈迦様時代の戒律(昼までに托鉢して食事を済ませることなど多岐に亘って決められていた)を厳格に守り続けようとした保守層による仏教で、一般大衆からは遠い存在となっていたようです。

 これに対して仏教本来の姿に戻ろうとする考え方が出てきたのが、「大乗仏教」です。大乗仏教は、戒律は時代に合ったものに変えると共に、僧侶自らの救いだけでなく、僧侶以外の一般の人々も含めて救済しようとする仏教です。

Ⅴ-130 上座部仏教と大乗仏教 ④ ~その定着地域と意味合い~

ネーランジャラーに架かる現在の橋 ブッダガヤへ

 その後上座部仏教はスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスを中心に伝わったため、「南伝仏教」とも言われています。一方の大乗仏教は、中国、ベトナム、チベット、韓国そして日本に伝わったため「北伝仏教」とも言われています。

 ところで「大乗仏教」と今は使われていませんが「小乗仏教」の「乗」ととはどういう意味でしょうか。同じく「大」と「小」はどのような意味なのでしょうか。まず、「乗」についてです。「乗」とは乗り物に例えられています。「小乗」(今は上座部)は小さい乗り物という意味です。これは出家して厳しい修行と戒律を守った僧侶のみが救われ、衆生(一般の人々)は救われません。このような特徴を持つ仏教を後に大乗仏教から名付けたいわば差別用語が「小乗仏教」で、最近では「上座部仏教」と言い換えるようになっています。

 一方の大乗仏教は、仏教の本質は全ての人々を救うものという認識であり、「大乗」は正に字の如しで「大きな乗り物」という意味なのです。従って大成仏教は僧侶や修行者だけでなく、多くの衆生も菩提心(悟りを求める心)を持つことによって菩薩になる(悟りの境地に達する)ことが出来ることを意味しています。言い換えますと自分の利(自利)だけではなく自分以外の人の利(利他)を併せ持つのが大乗仏教なのです。

 さらに大乗仏教は後に「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」に分かれることになります。

Ⅴ-131 インドにおける現在の仏教

スリランカからの参拝者(ブッダガヤ)

 さて、インドはお釈迦様の誕生と仏教発祥の国ですが、残念ながら歴史の経過と共に衰退してしまいました。11世紀頃から、イスラム勢力がインドに侵入すると共に、イスラム教徒によってさまざまな僧院が破壊されてしまったこと。加えて仏教を保護し支え続けていた王朝が滅びてしまったことが大きく影響し、13世紀頃には衰退してしまいました。

 現在のインドにおける仏教徒は、「不可触民」を中心に、ヒンズー教から仏教に改宗する人が増え「1億5000千万人にも上る」という見方もあるようですが、明確ではありません。チョット古いのですが、インド政府の統計によると仏教徒の割合は2001年に0.8%(約800万人)程度とされています。イスラム教徒13.4%、ヒンドゥー教徒80.5%となっています。

 一方で、インドに帰化した日本人僧の佐々井秀嶺師や「日本山妙法寺」の活動、チベットで迫害されてインドに脱出したダライラマ14世を中心としたチベット仏教徒の存在などで、インドにおける仏教徒は少しずつ増えているとも伝えられているようです。

 しかし、仏教の隆盛時代にはほど遠く、私が2005年にインドの仏教遺跡と聖地を訪れた時の模様と写真をこの項「Ⅴ 仏教に見る祈りと教え」の第11回 2012.02「仏教の歴史」、第16回 2012.07「お釈迦様」、第26回 2013.05「伝統を受け継ぐインドの風習」に掲載しております。その中に「て少しばかり気になったのは、この聖地にもかかわらず保存と管理が余り行き届いていない感じを受け、少しばかり残念な思いが残りました」と掲載しました。今もって残念な思いです。