いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第105回

日々の生活の質をいかに高めるか
【生活の質の考察】112~118

「スーパーボランティア 2」

 前回のこの項では、私の浅はかさの暴露と自戒の念を込めて、尾畠春夫さんの生き様と心を打つ“教え”について述べました。今回はその2回目として尾畠さんのボランティア精神と私の反省について述べます。

Ⅳ-112 尾畠さんのボランティア精神①

鳥取・砂の美術館

 「今の自分があるのは周りの人のおかげ、困っている人に手を差し伸べるのは当たり前」(「日出広報2011年6月号」、2011年、地元である大分県日出市広報誌の取材に)との姿勢でボランティア活動に取り組んでいるのです。
 この取材当時は東日本大震災の発生直後。壊滅的な被害を受けた被災地での言葉です。東日本大震災においても、はるばる大分県から宮城県南三陸町でボランティアとして活躍、がれき撤去などの支援活動を行いました。
 東日本大震災以外にも、2014年の広島土砂災害、2015年の東日本豪雨、2016年の熊本地震などにも参加し、車中泊しながら連日の作業に参加しています。長年にわたってボランティアを続け、その日数は合計で実に500日以上にもなるそうです。

Ⅳ-113 尾畠さんのボランティア精神②

「ボランティアは自己完結、自己責任。怪我しても自己責任。人を頼ったり、物をもらったりしちゃいけない」という考えのもと、軽ワゴン車に食料や水、寝袋を積み込み、絶対に現地調達せず、2週間分の食料を持ち込んでいるとのことです。
 その中身はパックご飯、インスタントラーメン、梅干、せんべい・アメ。特に「梅干しは種ごと食べる」と。被災地での限られた環境下で、栄養を残さず摂取するための工夫でしょうか。そして尾畠さん「もちろん対価や物品、飲食、これらは一切いただきません。ボランティア活動は決して“してやる”ではなく、“させていただく”の気持ちで私は臨んでいます」と。

Ⅳ-114 尾畠さんのボランティア精神③

 あるテレビ番組で「なぜ大分県からわざわざボランティアに訪れたのか?」と聞かれ、「わざわざじゃないですよ。日本人だから。言葉が通じるから私は日本中どこでも行きます」と、信念を述べていました。
その尾畠さん、決して経済的に恵まれているわけではないのです。「私の収入は国民年金だけ。月に5万5000円です。お金がないなと思ったら、朝ご飯だけ食べて、昼と夜は食べない。それだけのことです」と。この年金額で日常の生活費にプラスして被災地へのガソリン代まで賄っているのです。
 又、長年のボランティア活動に使い、所々破れが目につく寝袋について聴かれ、「まだそんなに日はたってない。38年目です」と。日々いかに質素に生活をしているか伺い知ることができます。

Ⅳ-115 尾畠さんのボランティア精神④

 尾畠さんは被災者に接するときに大切にしていることがあると言います。「ボランティアは被災者に根堀り葉堀り聴かないことです。家が流されたかもしれないし、ご家族が亡くなったかもしれない。これからの生活に途方に暮れているかもしれない。自分が被災者だったら、あれこれ聴かれるのは嫌だなと思うんです。聴くことはたった1つ。『おけがはなかったですか?』この一言だけです」と。
 さらに尾畠さんは、お酒が大好きだそうです。しかし「東日本大震災の東北から仮設住宅がなくなるまで断酒する」として一滴も飲んでいないということなのです。尾畠さんは地理的に東北から遠い九州・大分の方です。にも関わらず堅い決意と想いを持っているのです。
 一方、私は山形市在住で隣は宮城県です。隣県は大震災の影響をまともに受け多数の被災者と大きな被害に遭いました。誠に申し訳ないのですが、隣接の市に住んでいる私は、「断酒」していません。尾畠さんの生き方について行けない実態がここにもあります。
 さらに尾畠さんは続けます「日本っちゅう国は資源のない国じゃから。だけど知恵は無限にあるんですよ」と。

Ⅳ-116 尾畠さんのボランティア精神⑤

 「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」これが尾畠さんの座右の銘とのことです。そしてご自身への呼称として「スーパーボランティア」が流行し、2018年暮れに流行語大賞にノミネートされました。しかし「『スーパーボランティア』なんて全然思っていない。当たり前のことをしただけ」として流行語大賞受賞を辞退しました。まさに尾畠さんの生き方そのものを物語っているようです。

Ⅳ-117 改めて尾畠さんへの謝罪と反省の意を込めて①

 この項の前回で、「私の浅はかさの暴露と自戒の念を込めて」として、尾畠さんの子供発見第一報に対して私自身が「出来過ぎ」等の疑念を持ったことを明かし、私の浅はかさを反省すると共に、心から尾畠さんにお詫びをする気持ちになったことを述べました。ここに再度深く反省と謝罪の意を込めて、もう少し述べたいと思います。
 このホームページでの私の経歴にありますように、私は25年間に亘り、山形県立中央病院の医療福祉相談員として勤務しました。その間、病院の移転新築に当たり、病院運営の充実を目途に、院内ボランティアを立ち上げ、その責任者とコーディネーターを務めました。又、東日本大震災以降、慰霊と復興祈願等、法要などのボランティア活動を行ってきました。従って私自身はボランティア活動に、あまり遠くない位置にいたと思ってきました。
 しかし本当のボランティア、正真正銘のボランティアに対する今回の私の「疑念」は、それを吹き飛ばすほどの反省となりました。私はボランティアを経験しただけでなく、この秋で住職40年、通算38年相談員として務めた履歴を持つ者です。これらに共通したスタンスは、発言、人格、活動などを「先ずはそのまま受け入れること」を基本にしていることです。それにもかかわらず、このような間違いを犯してしまいました。加えてこの項の前回で述べたとおり、このホームページでも「自利利他行」の大切さを何回となく述べてきた私です。
 今回の誤りに際し、再度僧侶として(いや、むしろ人間として)の基本精神に立ち返りたいと思っています。尾畠さん誠に申し訳ありませんでした。そして有り難うございました。

Ⅳ-118 改めて尾畠さんへの謝罪と反省の意を込めて②

 この項の第90回「日野原重明先生の教え」と前回に述べたことと重複するのですが、一人ひとりが持っている「命という時間」をいかに使うか(いかに生きるか)。自身の時間なので自分のために使う(生きる)だけではなく、自分以外の人のためにも使う(生きる)ことこそ大切であること。これは、仏教の生き方についての根幹である「自利利他行(じりりたぎょう)」そのものであることを述べました。
 尾畠さんにはとてもとても及ばないものの、貴重な命という時間を大切に使いたい(生きたい)と改めて思うのです。