圓應寺 住職法話
住職法話 第90回
日々の生活の質をいかに高めるか
【生活の質の考察】96~102
「日野原重明先生の教え 2」
前回のこの項では、平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックについて触れた後、昨年亡くなられた日野原重明先生の教えの前半について述べましたが、今回はその後半です。
Ⅳ-96 日野原重明先生の教え ~「いのち」とは~
一昔前には「いのちは地球より重い」という表現がよく使われました。そうです「いのち」は他に比べるものが無いほどの大切なものであることは万人共通と言っても過言ではありません。ては、それほど大切な「いのち」とは何でしょうか? 「はい、これです」と説明できるものではありません。日野原先生は著書「今伝えたい大切なこと」(NHK出版)で概ね次のように説明しています。「『いのち』は目に見えない。では何か?。『いのち』とは自分が自分の意図で活用できる時間である。そしてその『いのち』に自分らしさを吹き込めば、より生き生きと生き甲斐のある人生を送ることが出来るでしょう」と。
Ⅳ-97 日野原重明先生の教え ~「生きていくあなたへ」の出版~
先生はお亡くなりになる前の年(2016年、平成28年)の12月29日~翌年の1月31日にかけてほぼ毎日のインタビューに応じられ、それを記録、編集した内容が「生きていくあなたへ ~105歳どうしても遺したかった言葉~」(幻冬舎)として出版されました。その中で印象深かったものを次にご紹介させていただきます。
Ⅳ-98 日野原重明先生の教え ~「生きていくあなたへ」から~ ①
「105歳になられた先生、死ぬのはこわくないのですか?」の問いに。
「おそろしい…あなたにそう聞かれるだけで恐ろしい…死ぬということは誰も経験していない『未知』のことなので恐ろしいことなのだと思います」と。続いて「ただ死ぬのが嫌だから生まれてこないという人はいないように、生まれた瞬間から死ぬことが決まっています。(大切なことは)死だけを凝視するのではなく、目を背けるのでもなく、ただただ今生きている自分の命を輝かせていくこと。それこそが死と一つになった生を生きること」だと。
※「ただ今生きている自分の命を輝かせていくこと」とはどういうことでしょうか。この頃の最後のところでお伝えします。
Ⅳ-99 日野原重明先生の教え ~「生きていくあなたへ」から~ ②
「離婚を経験し、もうこんな思いはしたくなくて、新たな出会いを求められずにいます…」との問いに対して、先生は「出会いは感動を伴うが、その感動が大きければ大きいほど別れの時の喪失感も大きいものです。しかし生きることと死ぬことの片方だけを選べないように、出会いと別れもどちらか一方だけをとることは出来ないのです。出会いと別れは一つのものなのです」と。
Ⅳ-100 日野原重明先生の教え ~「生きていくあなたへ」から~ ③
「先生のように生涯現役の人生にあこがれているのですが?…」との問いに。
「ライフワークという言葉がありますが、僕にとって働くというのは生きることと同義です」と働くことの大切さを述べた上で、「会社でどんな待遇なのか、どれだけ稼いでいるか、そういうことではなく、自分が生きていることをどれだけ社会に還元できるのか、もっと言えば自分に与えられた命という時間をどれだけ人のために使えるかということが、働くということなのです」と続きます。
そうです、この項の「98」で紹介した先生の言葉、「ただ今生きている自分の命を輝かせていくこと」とは自分に与えられた命という時間をどれだけ人のために使えるか(使うか ※この注釈は私です)によっていのちは輝くのです。その上で、「96」で紹介した「『いのち』に自分らしさを吹き込めば、より生き生きと生き甲斐のある人生を送ることが出来るでしょう」と繋がるのです。
Ⅳ-101 日野原重明先生の教え ~「生きていくあなたへ」から~ ③
最後にいじめに対しての先生の考えです(「(いじめに)しかえししないよ」より)。 先生は子供たちに次のような言葉を投げかけます。
「いのちは自分がもっている時間だよ
いのちを大切にするとは
いのちを上手に使うこと
つまり君のもつ時間を
君だけでなく誰かのために使うこと
誰かの時間と 君の時間がいっしょになって
君のいのちが膨らむんだよ」と。
Ⅳ-102 仏教の教えと同じ教え
くどいようですが、先生は仏教徒ではなく、父親が牧師さんであった根っからのクリスチャンです。ここまで紹介してきた先生の「いのちは自分がもっている時間」に代表される考え方と生き方は、仏教の生き方についての根幹である「自利利他行(じりりたぎょう)」そのものです。それは自分の功徳のために努力・修行するだけでなく、人々の救済に努力・修行する生き方です。繰り返しになりますが、自己のための行(修行、日頃の行い、実践)だけでなく、自分以外の人々のための行が大切という教えそのものではないでしょうか。両者相まって自利利他円満となるのです。