いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第51回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

50~55

「弘法大師・空海」

 前回のこの項では、日本への仏教伝来の概略について述べましたが、今回は真言宗の開祖である弘法大師・空海が密教の極意を求め、遣唐使の一員として長安(西安)に赴いたことを私の訪問記も含めて振り返ります。

Ⅴ-50 空海の誕生

弘法大師・空海 圓應寺所蔵

 空海は宝亀5(774)年に現在の香川県善通寺市において、郡司職にあった父・佐伯のもとに幼名を真魚(マオ)として生まれました。
延暦7(788)年平城京上京。同11年、18歳で京の大学寮に入り、役人になるために大学で学びました。

Ⅴ-51 大学を中退 

悟りを開いたとされる御蔵洞

 しかし大学での勉学に飽き足らず、周りの反対を押し切って大学を中退、仏道の修行に入ることになります。19歳を過ぎた頃から山林での修行に入り、 御蔵洞(現・高知県室戸市)で修行中に悟りを開いたと言われています。
その際、空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったとも伝わっています。 しかし、この頃より入唐までの経緯は余りよく分かっていません。

Ⅴ-52 遣唐使として長安へ

平成10年時の青龍寺

 804年5月11日、空海は遣唐使の一員として密教を学ぶため唐の国に渡りますが、当時の航海は正に命がけのものでした。出航は四隻で空海は第1船。第2船には前年に唐に渡ろうとして荒波に遭い目的を果たせなかった最澄(後に天台宗の開祖)が乗っていました。
その四隻は出航して二日目に嵐に遭い、なんとか唐に着いたのは第1船と2船で2隻は遭難したと言われています。 到着できた空海と最澄の船もバラバラになり、空海の乗った船は、34日間漂流して目的地から南に遠く離れた福州長渓県赤岸鎮(現在の福州市から北へ約250キロの海岸)に漂着したのです。
しかし海賊の疑いをかけられ港町に50日程留め置かれましたが、空海が現地の役人に嘆願書を書き、その文面の見事さによって上陸を許可されたと言われています。 以後、約2ヶ月を要して待望の長安(現・西安)に入ったのです。

Ⅴ-53 平成10年時の青龍寺

空海が恵果阿闍梨に師事した青龍寺 平成10年時

 私が初めて青龍寺を参拝したのは平成10(1998)年9月11日のことでした。 西安の城壁・南門から数キロ、雨上がりの中車は未舗装でドロドロ状態の道を小高い丘に登ります。 お世辞にも由緒ある我が弘法大師の聖地を目指しているイメージではありませんでした。
丘を登り切った所に聖地がありましたが、周りは畑で「寂しいへんぴな場所」という印象でした。
青龍寺に到着しましたが、全面工事中で入り口は壊れた壁が建っている状態でした。

Ⅴ-54 再建中の青龍寺

西安・恵果空海記念堂 平成10年時

 境内に入ると、建物はほぼ完成状態でしたが、内装や外回りはまだまだ工事中で参拝者や観光客を迎い入れる状況にはありませんでした。
青龍寺は長い間、 歴史の中に埋もれてしまい、その場所すら特定できない時代が続きましたが、1982年以降の発掘調査等によって現在地が特定され、青龍寺の再建が始まりました。
この再建工事は、日本の全真言宗からの寄付金で着手されたもので、恵果空海記念堂を中心に復興が進められて来たのです。

Ⅴ-55 最澄との違い

平成10年時

 さて、空海は延暦23(804)年、留学期間20年に及ぶ正規の遣唐使(留学僧)として唐に渡りましたが、渡航直前までは私度僧でしたので、 どのような経緯から正規の遣唐使となったのかはよく分かっていないようです。
 一方の最澄は時の桓武天皇により留学生より格上の還学生(げんがくしょう)として、短期間滞在して天台教学を究めるための入唐でした。したがって二人の間に は大きな差があったと同時に、空海は長期間の滞在が予定されておりそれが厳命でもあったのです。
 ところで空海の渡航にはツキがありました。渡航の前年、最澄等の遣唐使団が渡航を試みたのですが、嵐に遭遇して渡航を断念し、一年後に再度挑戦することになったのです。 もし、前年に渡航できていたとすればこの年(804年)の遣唐使団はなかったのです。このツキにも恵まれ、空海は海を渡ることが出来たのです。