圓應寺 住職法話
住職法話 第46回
仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】
「日本への仏教伝来と仏教歴史 後半」
圓應寺ホームページをご覧いただいている皆様、明けましておめでとうございます。平成23年3月11日から3年が経過した昨年は、広島の集中豪雨による大災害、木曽御嶽山の爆発による大災害そして11月には長野県北部を襲ったマグニチュード6.7、震度6弱という大地震による大災害等々が発生しました。「天災は忘れた頃に来る」(寺田寅彦)という名句(警告句)がありますが、近年の日本列島は忘れる暇もない頻度で大災害が発生しています。自然災害は他人事ではなく、自らにも起こりうることとしての生活が必要となっています。しかしその上で尚、「今年は災害等のない良い年であってほしい」と心から願うものです。皆様にとっても、災いのない良いお年でありますよう心から祈念申し上げます。
さて、前回のこの項では、日本への仏教伝来から鎌倉時代までの仏教歴史の概略について述べましたが、今回はその続きです。
Ⅴ-44 仏教伝来と歴史⑦ ~室町時代 ①~
禅宗の興隆によって禅寺の建立が目立ち、庭園、書道、文学、水墨画等の禅文化が広がりました。曹洞宗は地方に大きな勢力を持つようになり、浄土系は蓮如が登場して北陸地方に浄土真宗が広まりました。
ちなみに当圓應寺は、室町時代の延文(1356年、南朝は正平年間)元年の創設です。平成7年に新本堂を落慶しましたが、本堂の様式は寺社専門の棟梁にお願いし、歴史の原点である「室町様式」で造っていただきました。
Ⅴ-45 仏教伝来と歴史⑧ ~室町時代 ②~
新本堂建設に当たり、計画の当初は「今の時代だから鉄筋コンクリート造りで」という検討から始まりました。私自身洋式の本堂に何の疑問も持ちませんでした。ところが検討を進め、学習する中で和式・木造建築のすばらしさが分かってきたのです。この思いは私だけでなく、当時の建設委員全員の意識変化へとなったのです。耐久性、美しさ、霜の付きにくさ、目と肌への優しさ、より細い柱、細々とした造作等々の優位性でした。一方で建設期間と費用が二倍になるという問題がありましたが、検討を重ねた結果「木造で!」と決まったのでした。
その結果として当圓應寺の歴史の原点である「室町様式」で造ることとし、寺社専門の棟梁にお願いすることになったのです。
Ⅴ-46 仏教伝来と歴史 ⑨ ~室町時代 ③~
室町様式は、屋根の曲線が女性的で優雅であること。全体が質素な造りであることが特徴と言われています。その例の一つとして欄間が挙げられます。色彩豊かな彫刻をあしらった立派な欄間をよく見かけますが、豪華になったのは江戸後期の元禄以降と言われており、室町時代にはありませんでした。当寺のものは格子を組んだ質素な欄間になっています。
Ⅴ-47 仏教伝来と歴史⑩ ~江戸時代~
仏教は幕府の統制下に置かれ、民衆支配の一機構となりました。具体的には、
①各寺院を本寺と末寺という上下関係にし、本寺に権力を持たせて末寺を支配すること
②キリシタン禁制を徹底するため寺院と民衆を結びつけ檀家化しました。この制度を徹底した上で、戸籍制度の替わりとして機能させました(寺檀制度)。
後者の寺檀制度は今日の寺と檀家の関係に強く影響し、現代の仏教、寺院そして僧侶の問題を語る場合の基本として度々取り上げられます。
その概要は
① 寺檀制度によって寺院の経済的基盤が出来たものの
② 寺(僧侶)本来の活動である布教活動をおろそかにしてしまっただけでなく
③ 僧侶の修行、生き方にも影響を与えてしまった
④ この様にして日本仏教は「葬式仏教」になってしまい、国民の多くが「自分は無宗教」ということになってしまった。
このようなご批判を頂くことがよくあります。私自身、心して僧侶としての活動と戒めを胸に僧侶していきたいと考えているのですが‥‥。
Ⅴ-48 仏教伝来と歴史⑪ ~明治時代~
この時代の最大の出来事は明治政府によって出された神仏分離令(明治元年・1868年)によって、それまで長い歴史を誇ってきた神仏習合の状態が、強制的に分離されることになったことです。政府は神道の国教化を推し進め、神道を仏教伝来以前の姿にもどす政策が「神仏分離令」でした。神様と仏様、神社と寺院は1000年以上習合されて来ましたが、それを分離させるというものでしたが、「分離」だけにとどまらず、全国各地で「廃仏毀釈」運動が巻き起こり、各地の寺院や仏具そして多くの貴重な文化財が破壊されてしまいました。今思えばまことに残念至極の「廃仏毀釈」だったのです。
Ⅴ-49 仏教伝来と歴史⑫ ~明治時代・廃仏毀釈と当寺~
全国各地で行われた廃仏毀釈により、廃寺どころか打ち壊しに遭った寺院は数知れません。当圓應寺もこの流れの影響を受けました。当時、圓應寺の本寺であった成就院という大きな寺院があり、「両所の宮」という神社をその別当として管理運営しておりましたが、正に神仏分離令と廃仏毀釈の中で廃寺となってしまいました。その際、打ち壊しに遭う前に筆頭末寺であった圓應寺に不動明王、大壇、雷神等多くの仏財が移されました。その他、他寺院にも多くの仏財が移されたわけですが、現在その大寺院・成就院はその敷地も含め面影すらありません。誠に残念な時代でした。