いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第36回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

32~37

「玄奘三蔵のシルクロード 後半」

 前回のこの項日本の仏教に多大の影響を与えた玄奘三蔵のシルクロードについて述べましたが、今回はその2回目です。

Ⅴ-32. 玄奘三蔵いよいよ天竺へ⑤

高昌故城

 旅の途中、玄奘三蔵は高昌国に立ち寄りました。
 当時の高昌は、寺院50余と仏教が栄えていた様子も伝えられています。
 熱心な仏教徒であった高昌王に仏教の指導者として長くとどまるよう要請を受けるも、初期の目的を遂げるため王に別れを告げ、天竺へ。高昌王は玄奘に理解を示し、身の安全を保障し旅を続けることが出来ました。
 又、多大の資金を提供したとも言われています。

Ⅴ-33. 玄奘三蔵いよいよ天竺へ ⑥

 しかし16年後、玄奘が帰路についた頃にはこの高昌国は戦い敗れ、遺跡状態になっていたのです。私は遠い時代を忍び、現地で祈りを捧げてきました。

Ⅴ-34. 玄奘三蔵いよいよ天竺へ⑦

果てしなく続くタクラマカン砂漠

 果てしなく続く砂漠、水一滴ない砂漠。周り一帯360度、目にとまるものは全くありません。玄奘三蔵は、旅の途中飢えや渇き、何度かの盗賊にも遭い、正に難行苦行の旅を続けます。

Ⅴ-35. 玄奘三蔵いよいよ天竺へ⑧

火焔山

 草木一本ない「火焔山」。字のごとく燃えるような山で西遊記の孫悟空の世界に出て来る物語の地です。私が訪れたのは9月上旬でしたが、正に灼熱の大地そのものでした。

世界一大きな寒暖計

 火焔山の近くに「世界一大きな寒暖計」がありました。夕方近くの4時半頃でも摂氏45度の暑さでした。又空気はカラカラで、口が渇き、唇もガサガサの状態でした。
 このようにして玄奘は西域の商人らに混じって天山北路を通って中央アジアの旅を続け、ガンジス川を越えて天竺に到ったのです。

Ⅴ-37. 玄奘三蔵長安に戻る

 天竺に到った玄奘は、仏陀の足跡を訪ねた後、現在のインド・ビハール州にあった「ナーランダ僧院」で5年間学んだ後、インド大陸をほぼ一周し、往路とは逆に天山南路を通って帰国しました。出国から実に16年後の645年でした。玄奘は700典近い経典や多くの仏像等を当時の長安に持ち帰りました。
 国禁を破って出国時したものの、16年後に帰国した時には国の情勢も変わり、むしろ歓迎されるような形で帰国できたようです。玄奘は持ち帰った経典の翻訳に寸暇を惜しんで取り組みます。玄奘の翻訳は『大般若経』600巻を含む膨大なものとなりました。その翻訳は漢訳語で、それまでの鳩摩羅什らの漢訳経典を旧訳、それ以後の漢訳経典を新訳として区別されています。
「般若心経」も玄奘が翻訳したものとされており、持ち帰った多くの仏典は、652年に玄奘自身が創建した長安(現在の西安)の郊外にある大慈恩寺の境内に建っている大雁塔に納められました。