いかに生き、いかに死ぬか

圓應寺 住職法話

住職法話 第11回

仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】

5~10

「仏教の歴史」

 前回のこの項では、「仏教の教えの基本」を中心に述べましたが、今回のこの項では「仏教の歴史」の概略を紹介します。

Ⅴ-5.お釈迦さまの誕生

圓應寺観音
  • 「仏教」を開いたお釈迦さまは、約2500年前の紀元前4~5世紀頃、現在のインドとネパール付近の「シャカ族」の王子として生まれました。長く待ちこがれてようやく誕生したことから、名前は「ゴータマ・シッダールタ」(ゴータマは最上の牛、シッダールタは一切の願いが成就したという意味)と付けられました。誕生日は4月8日と伝えられており、仏教界にあってはこの日を「花祭り」として祝い行事をしております。
  • そのシッダールタは、生まれて直ぐ7歩あるいて「天上天下唯我独尊」(世界にこのいのちは一つだけ、全てのいのちに価値があり尊い)と唱えたと言われます。「7歩」というのは、六道輪廻を解脱(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の苦しみの世界を越え仏の世界に行くこと)する意味と伝えられています。
  • 「シッダールタ」は29歳で出家しました。修行に入るためお城の東門から出ようとすると、そこには年老いた老人の姿があり、南門には病気で苦しむ姿、西門には死者の姿がありました。人間の「苦」を目の当たりに見たのです。最後に北門から出た前には、修行者の姿があり、意を決して城を後にしたと言われています。

Ⅴ-6.6年間の荒行から

 当時のインドは、バラモン教が中心であったと言われています。5人の仲間と一緒に、シッダールタも修行者(出家者)として6年間に亘って荒行を続けました。
 35歳になったシッダールタ、荒行から悟りは得られないことに気付き、心身共に限界の状態で、修行地のスジャータ村を出る決意をしました。5人の仲間は修行の「脱落者」として軽蔑したと言われています。

この山に釈迦が苦行したとされるスジャータ村がある

Ⅴ-7.村娘の「乳がゆ」によって

 それまでの修行地を離れたシッダールタは、ネーランジャラー河の川岸で倒れてしまったのですが、村娘のスジャータから乳がゆを頂き、体力を回復したと言われています。

この木の下で乳がゆを頂いた

Ⅴ-8.ネーランジャラー河を渡っていよいよ

ネーランジャラーに架かる現在の橋

Ⅴ-9.修行者から仏陀へ

 シッダールタはブッダガヤの地に入り、この菩提樹(写真の菩提樹は三代目のものだそうです)の下で、深い瞑想に入りました。
 悟りを阻止しようとして数々の妨害が入ったと言われていますが、それらを克服して49日目の12月8日早朝、遂に悟りを開きシッダールタは修行者から仏陀となったのです。
 さて、その「悟り」とはどういう内容だったのでしょうか。それは仏教の根幹そのものなのです。世の全てのものは移りゆくこと(これを「無常」と言います)。人の心・若さ・健康、そして形あるあらゆる物は変化して移りゆくものであること。いつまでも若くいたい、健康でいたい、アノ物が欲しい等々の「無常を忘れた」欲望が生まれると、そのものに執着しそれが実現しないところに、「苦」が生じること。
 「苦」からの解脱は、欲望(煩悩)を捨て去ることの悟りに至ったのです。

釈迦が悟りを開いたブッダガヤの聖地

 この写真に見るとおり、菩提樹の周りには人が入らぬよう石造りの柵があり、その内側に台座があります。仏教徒・なかんずく住職の一人である私は、ゾクゾクするような感激と霊感を覚えた仏教の正に聖地です。しかしかつてオウム真理教の麻原 彰晃(本名:松本 智津夫)が、勝手にこの中入って台座に座り、地元の人々につまみ出されひんしゅくを買いました。

Ⅴ-10.少ない日本人参拝者

 ブッダガヤは仏教徒にとっての最高の聖地に間違いないと思いますが、意外にも仏教徒の参拝者が少ないように思いました。私が訪れたのは、05年2月ですが、日本からの参拝者にはほとんど会うことはありませんでした。それに対してスリランカからの白装束姿の参拝者が目にとまりました。そして少しばかり気になったのは、この聖地にも拘わらず保存と管理が余り行き届いていない感じを受け、少しばかり残念な思いが残りました。

スリランカからの参拝者

この項の次回(7月を予定しております)は、もう少し仏教の歴史について述べたいと思っております。