圓應寺 住職法話
住職法話 第6回
仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】
1~4
「仏教の教えの基本」
Ⅴ-1.仏教 その教え ~無常~
「仏教の教えの基本は何?」との問いに幾つかの応えがあると思いますが、私の基本テーマである「いかに生きいかに死ぬか」に照らして、その基本として「無常」(「無情」ではありません‥‥念のため)という教え(考え)を取り上げたいと思います。
この教えは、
①この世に永遠なものは何もないこと
②形あるものは必ず変化する(壊れる)
③私達人も生きて例外なく死を迎える
というものです。
前回「 Ⅳ 有限の人生そして『死』を意識して」に於いて、
「地球上には、数限りないほどの『生きもの』が生存しています。動物は勿論のこと、植物も立派な『生きもの』です。私達人間もその中の一つの種である『人』という生きものです。したがって『生あるものいつかは滅す』の定めによって、必ずや『死』を迎えることになります。」
と述べましたが、仏教に於いても全く同じ考えなのです。
Ⅴ-2. 「仏教は死後のことばかり」‥‥という誤解
「仏教という宗教は、死んでからどうなる等と死後のことばかり、暗いなぁ」というイメージを持っている方が多いのでは?
もしそうだとすると僧侶の一人として少しばかり責任感を感じざるを得ません。
仏教は死んだ人をまつる宗教でもありますが、「人生に限りがある。しかもいつ終点が来るか分からない。だからこそ日々を漫然と生きてはならない」という「いかに生きるか」についての宗教でもあるのです。
Ⅴ-3.「有限だからこそ意味のある人生」なのです
もし、私達の人生が、永遠のものであったり、スペアがあるとしたらどうなるでしょうか。
今日・今週・今月・今年は、何の精進・努力をしなくとも「その内、努力・精進します」となるだけでなく、これを繰り返しても良いような人生となってしまいます。この様な生き様を「人生」とは言えないのではないでしょうか?
やはり、「人生に限りがある」からこそ「人生を大切に考えよう」「精進・努力をしよう」「生き方を考えよう」となるのではないでしょうか。
仏教もこの「限りある人生をいかに生きるか」を問い、共に考えようとする宗教なのです。
Ⅴ-4.「蝋燭の詩」
この限りのある人生を見事に表した詩が、NHKテレビ「心の時代」で長崎県・禅心寺住職金子真介師が紹介した「蝋燭の詩」です。
人の命は生まれた(ローソクに火をつけた)瞬間から刻々と死に近づくこと。
これは例外なく、誰にも求めることはできないこと。
問題はどのような人生をその人が歩むかであること。
これが「人間に与えられたたったひとつの自由(師に失礼ですが、私は「課題」と読み替えております)である」と。
仏教の出発点は正にここにあると考えています。
次回は、「Ⅰ 日本社会の現状」に戻り、今年5月1日の続きについて述べたいと思っております。