圓應寺 住職法話
住職法話 第111回
仏教に見る祈りと教え
【仏教を今に生かす「いかに生きるか」の考察】
121~125
「弘法大師・空海 名言5」
今回はお大師様名言シリーズの5回目(最終回)です。
今回はお大師様の「時期応ぜざれば我が師、黙念す」について私の体験を踏まえて考えてみたいと思います。
これまでも述べましたが、お大師様の名言は沢山あり、その中でも私がよく使わせて頂いているものを紹介しています。その他の名言については、「言い伝え」同様に専門家が多くの書籍で紹介しておりますのでそちらをご覧下さい。
Ⅴー121 空海の名言 ⑳-ⅰ
「時期応ぜざれば我が師、黙念す」(『続遍照発揮性霊集』)
ここで言う「時期」は仏道の修行にあって師僧とその弟子の、教えと教わる双方のタイミングのことを意味しています。
特に弟子に教わるための時期が来ない間は、大切な教えを伝授しないということです。お釈迦様ご自身も「待機説法」と言って、時期が来なければ説法もしなかったと言われていますし、その説法も相手の力量・能力に合わせて行ったと言われています。
同じような言葉として病気に応じて薬を与えるという「応病与薬」があります。
Ⅴー122 空海の名言 ⑳-ⅱ
「時期応ぜざれば我が師、黙念す」(『続遍照発揮性霊集』)
この「時期応じざれば…」にピッタリの内容ではありませんが、四年前の16年7月に内孫・長男の得度式を寺で行いました。その時の様子を紹介したいと思います。
この模様はホームページの「その他 住職略歴・臨時法話などの項目中「臨時法話 得度式」(16.08.10更新)」で詳しく述べましたので参照頂ければと思います。
そこでも述べましたが、式典に参加した檀家の方々の中には、目に涙の様相で感激している人も多数で、「良かった良かった!」「めんごかった(可愛かった)!」「おめでとう!」の声掛けを頂き、孫も日頃にはない大きい声で「有り難うございました!」のお礼の言葉を発することが出来たのです。得度式の意味合いを小学4年生の孫が正確に理解しているわけではありませんが、場の雰囲気、皆さんの表情等々から自分の立場をそれなりに理解できたようなのです。
この式典後、ずいぶん大人風になった孫の姿を見るようになったのは気のせいだけではないと思っています。正に時期が来て得度式ピッタリだったのです。
Ⅴー123 空海の名言 ⑳-ⅲ
「時期応ぜざれば我が師、黙念す」(『続遍照発揮性霊集』)
話は変わりますが、私自身も「時期応じざれば…」の良い(?)経験があります。
直接仏教とは関係ありませんが、上智大学名誉教授アルフォンス・デーケン先生の教えと出会いに関することです。ご承知の通り先生はドイツ人の哲学者であり死生学の専門家で、特に死生学にあっては我が国の先駆者として長く活躍されています。
私が先生の講演を始めて聴いたのは、愛知県で精神科医療福祉相談員(別項の私の経歴を参照下さい)として仕事に就いていた、50年ほど前の昭和45年前後のことでした。その頃の私は20代の若造(若僧)で、先生の「死生観」を聴いても特に関心を持てず、「そんな考えもあるのか…」「こんな先生もいるのか…」というのが率直の感想でした。
そうです、当時の私には先生の教えを受け止める能力や力量もない時代、つまり「時期」ではなかったのではないかと思っています。
Ⅴー124 空海の名言 ⑳-ⅳ
「時期応ぜざれば我が師、黙念す」(『続遍照発揮性霊集』)
その後、山形県立中央病院医療福祉相談員と住職の二足のわらじを履くことになりました。
その中で、病院では相談に乗っていた患者さんの死、寺では檀家さんの死との出遭い。そして檀家さんの場合は葬儀を執り行うことに。その葬儀、私自身が住職として少しずつ経験を重ねる中で「出来るだけその人らしい葬儀」を心掛けるようになりました。その葬儀には二つの柱があります。
その一つは当然ですが亡くなった方の御霊を慰め、現世とお別れし、お大師さまの教えを通してお釈迦様の仏弟子になって頂くことです。もう一つはご遺族の心を慰めることです。
Ⅴー125 空海の名言 ⑳-ⅴ
「時期応ぜざれば我が師、黙念す」(『続遍照発揮性霊集』)
前項の二つ目の柱が最初の柱同様に大切なことなのです。住職としての経験が浅い頃の私は、一般的な「良く看病」「長い介護を」「亡くなった○○さんは感謝している」等々と述べるに止まりました。
しかし次第に○○さんの死を通して「人は必ず死ぬ」ということを遺族と再確認した上で、「だからこそ今をどう生きるか」「貴方(貴女)が持っている時間をどの様に使うか」「自利行と利他行を」等々について語るようになってきました。
この様な流れを通して少ずつですが、デーケン先生の教えに関心が持てるようになり、先生が立ち上げた「東京・生と死を考える会」(2017年休会に)の勉強会には積極的に参加させて頂きました。やっと私にも「時期」が来たのです。
そして現在「いかに生きいかに死ぬか」を生涯の課題とするようになったのです。