圓應寺 住職法話
住職法話 第20回
日々の生活の質をいかに高めるか
【生活の質の考察】15
「名のある人々の発言 2」
この項の先回に引き続き、「名のある人々の言葉」を紹介したいと思っています。その道で一流を極めた方々ですので、その内容には大きく心に響くものがあり、私達が生きていく上で大いに参考になる教えが沢山詰まっています。
Ⅳ-15. 元弁護士の中坊公平氏の言葉から ①
1985年ペーパー商法で破産し、社会問題となった豊田商事の管財人を務め、被害者への返済に奔走。被害総額の一割を回収して被害者へ返済する。その模様はNHKテレビ番組の「プロジェクトX」で「悪から金を取り返せ」として放映されました。
その中坊元弁護士の言葉です。
「弁護士、医者、僧侶は他人の不幸を飯の種にしているからこそ、他にもまして倫理性と思いやりが求められる」と。
私は、かつて38年間に亘って病院に勤務し、同時に住職としての任を務めてきました。この中坊氏の言葉に心から納得したことを今でも良く覚えています。氏の「医者」は、医療の現場で働く全ての職種に該当する言葉と思います。医師、看護師等様々な職種、そして私が務めた医療福祉相談員(MSW)等々にとって、連日患者・家族の方々と直接接する業務が待っています。職員にとってその業務は、全く同じとは言えないまでも、同種・同質業務の繰り返しの割合がかなりの部分を占めることになります。長年の経験と経歴がその業務の質を向上させますが、時としてその長年の経験と経歴が「慣れ」「マンネリ化」に陥る危険性をはらんでいます。
私が、医療福祉相談員として現職であった頃の業務の中に、研修医、新任・転入看護師に対しての講義の機会が毎年ありました。その際、私自身の自戒の念を込めて、医療の現場で働く者の基本姿勢について必ず申し上げた三つの事があります。
① 貴方の目は毎日新鮮ですか?
② 貴方は貴方自身を知っていますか?。
③ 患者さん(相手の方)は本当に分かったのですか?
以上の三項目です。
Ⅳ-15. 元弁護士の中坊公平氏の言葉から ②
私たち職員は、上述のように毎日同じような仕事ですが、私共の前に現れる患者さん達は、初めての来院・入院の方を含め、非日常の来院者です。病をもって日常とは異なる病院・医療者の前に来られた方です。私たちの日常と患者さん達の非日常、この関係に十分注意しなければなりません。「慣れ」「マンネリ」を克服し①の毎日新鮮な目が必要なのです。
②については、人(患者さん・ご家族)に直接応対する私たちですが、時として自分の性格や価値判断を根底にして対応する危険があります。明るく、きれい好き、楽観的、何事にも前向き、理論的等々の自分を鑑にしての応対です。しかし人は自分と同じではありません。自身の性格や価値観をしっかり自覚し、患者さんや家族のありのままを受け入れることを基本とした応対が求められるのです。
③についてです。病院職員は様々なその道の専門家です。専門用語を立て板に水の如くしかも自分のペースで、といった場面を見聞きすることがありました。病気の診断、治療計画、病棟の説明等の後、患者さんに「○○さん分かりましたか?」の説明者の質問に、患者さん達の多くは「分かりました」と。しかし後になって余り理解していなかったとうことがあるのです。患者さん達の立場に立って、患者さんの目線で簡易な言葉で、ゆっくり繰り返しながらの説明が求められます。「忙しいから」というのは理由になりません。「心優しく」「思いやりを持って」「親切に」は基本中の基本なのです。
Ⅳ-15. 元弁護士の中坊公平氏の言葉から ③
この私自身、大きな失敗をしてしまったことがあります。身体に障害がある場合、障害の種類や程度によって「身体障害者手帳」を申請し、身体障害者としての認定を受けますと、その障害をなくしたり軽減したりする医療に関わる費用を軽減する医療制度(更生医療)を利用することが出来ます。しかしこの手帳を持たない方は、どんなに大きな障害があっても法律で言う「身体障害者」ではありません。つまり、手帳を取得することは法的認定を受けて医療費の軽減に直結する資格が出来るのです。
ある日、この医療制度を利用できる患者さんが医師の相談依頼票を持って相談室に来られました。この患者さんに対して私は、手帳の意味を十分説明せず、サッサと手帳申請の書類手続きに入ってしまいました。すると患者さんは「オレは『身体障害者』といった烙印を押されたくない!」と。慌てて手帳の意味を説明しましたが、気分を悪くした患者さんは席を立ってしまいました。これが「慣れ」であり「マンネリ」です。患者さんに得な制度だからと一足飛びの「身体障害者」ではダメなのです。一人一人にキチンと順良く説明しなければならないのです。私の苦い経験です。
Ⅳ-15.元弁護士の中坊公平氏の言葉から ④
氏の言葉の中に 「僧侶」も含まれています。そうです私は、病をもった患者さんと亡くなった方とその遺族の方々に対しての仕事もしていたのです。二つの面から「他人の不幸を飯の種にしているからこそ、他にもまして倫理性と思いやりが求められる」立場(病院退職まで)にいたのです。
僧侶としての倫理性と思いやりとはどういうことでしょうか。いろいろな考え方があると思いますが、私なりの想いを述べたいと思います。
1 「死」を避けて通らない
檀信徒の方々には、日頃の法要時に必ず「死」を意識して「生」を語るようにしています。必ずある死があるからこそ今ある生を大切に生きる必要を語ります。とかく「葬式仏教」と言われたりもする中で、僧侶が死をかたることを避け、生きることにのみ焦点を当ててしまいがちですが、それでは本当の生を語ることにはなりません。これは私の「倫理性とおもいやり」の原点です。
2 やさしい仏教やさしいお経
時に、「お経は漢文の棒読みでサッパリ分からん」との話を聞きます。私の力では種々のお経を和訳することは出来ませんので、真言宗智山派で檀信徒用に作成している「智山勤行聖典」を私なりに編集し直すと共に、説明文と御詠歌を載せ、「圓應寺勤行聖典」として発行し、日々の法要に使用しています。
又、定年退職後、御詠歌講(御詠歌練習会のことです)を組織し月二回の割で約30人のメンバーで練習しています。御詠歌はやさしいお経そのものですし、仏教の意味合いにも触れると共に美しい旋律に感動を覚えるものです。
3 「お布施」について
葬儀、法要等の「お布施」額については、生活が苦しい檀家さんには、その実態に即して私の方から申し出ることにしています。但し、無料にしたことはこれまで3件ほどしかありません。少額の志だけでも頂くようにしています。その金額こそ正に大志のお布施です。
4 葬儀への心がけ
葬儀については、故人の歴史・生き様等々を振り返り、時にはパワーポイントを使ってその人に則した特徴ある葬儀を心がけています。
5 その他の考え、想い
その他については、このホームページに流れる私の考え方、想いを汲み取っていただければ幸いです。
この項の次回も「名のある人々の言葉」を紹介したいと思っています。