圓應寺の歴史

 延文元年(1356)、斯波兼頼公が山形城主として山形に入部の際、築城のしばしの間城の鬼門と言われる北東方角に位置した現在地に仮小屋を建て、弘法大師作と伝えられる、自身の兜の前立てとして付けていた聖観世音(五寸の黄金像)を、守護仏として奉安したことに始まる。

 兼頼公は後に最上家を名乗り、最上家が改易になる元和8年(1622)まで270年に亘り、歴代の城主は円応寺観音の信仰厚く、多くの寄進とともに立派なお堂や塔が建ち並び、寺領も広大であった。しかし最上義俊の時代に火災に遭い、建物・宝物等を消失。幸いにも尊像は難を免れたものの最上家改易とともに衰微の一途を辿ることとなった。

 貞享3年(1686)真言宗の存了律師が再興を発意、光有律師と協力して円応寺の再興とともに観音堂の建立に着手。享保年間(1717〜35)に入り、比丘光厳律師が寺町の住人・宗寿房を助手として、頭・肩・腕など六部分からなる釘一本使わない金箔をまとった木造の大観音坐像を彫刻・完成させた。1.05メートルの蓮台の上に座高3メートルの坐像は東北一の観音像と言われている。此の完成を機に御本尊は秘仏として胎内に納められ、「腹ごもり観音」として、三十三年毎に「御開帳」されることになった。

 平成に入って初めての御開帳(18年)は、大法要・御詠歌講員による奉詠・稚児行列等が行われた。開催の3日間、山門までの行列ができる多くの参拝者が訪れた。圓應寺観音はふくよかな眼差しで参拝者を迎え、家内安全・招福除災の他、「良縁・子宝・安産」の観音としても多くの信仰を集めて来た。当観音は、最上三十三観音第四番札所であるとともに山形三十三観音打ち止め霊場でもある。

 一方圓應寺は、昭和57年に墓地移転整備事業、58年庫裏・鐘楼・山内整備事業を完成。続いて平成7年、2年半に及ぶ大工事の末、新本堂・位牌堂・客殿が見事に完成し、寺院は一変した。

 本堂は寺の創世紀である室町時代の質素と優雅さを併せ持つ「室町風本堂」として設計・建設された。内陣正面右奥に本尊地蔵菩薩(山形・村山四十八地蔵第四番)、左に不動明王が安置されている。寺宝として江戸時代の「地獄図絵」「曼荼羅」「涅槃図」「西国各三十三観音像」の他、境内には山形市有形文化財指定・延文2年の板碑、戦時中の拠出を免れた元禄13年(1700)の梵鐘、最上三十三観音石像、石碑曼荼羅、参道敷石供養碑、善光寺参りの途中大地震に遭って助かった御礼として祀った善光寺如来、雷神そして寺庭には高さ5メートルに及ぶ弘法大師修業像が、遙か高野と四国を向いて立っている。